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絶待・相待

ぜつだい・そうだい #4463

絶待・相待

ぜつだい・そうだい

(一)相待妙と絶待妙。
略して待妙絶妙、待絶二妙ともいう。
妙法蓮華経の妙の字義に相待と絶待との二義があることをいう。
麁(粗なこと)に待して妙を顕すことを相待妙といい、彼此相待を超絶して自から妙であることを絶待妙という。
法華玄義』二上で妙法の名を釈する中、妙について一に通釈、二に別釈があり、通釈においては待絶二妙、別釈においては迹門十妙・本門十妙を説く。
相待妙とは「今、麁に待する妙とは、半字(蔵)を麁と為すに待して満字(通・別・円)を妙となすを明す。亦是れ常無常・大小相待して麁妙と為す也(略)復次に三蔵は但だ半字生滅門にして満理に通ずること能はず、故に名けて麁と為す。満字は是れ不生不滅門にして能く満理に通ず、故に妙と名く。能く満理に通ずるに復た二種あり、一に方便を帯して満理に通じ、二に直ちに満理を顕す。方等・般若は方便を帯して満に通じ、今経は直ちに満を顕す」と。
この中、半満相対して半字生滅門を麁、満字不生滅門を妙とするは大小相対に当り、また満字の中、帯権直顕相対して帯権を麁、直顕を妙とするは権実相対に当る。
故に相待妙とは麁妙を分別する教判であり、麁を破して妙を顕す立場である。
『玄義』二上の次下の文に「若し麁を破して妙を顕すにはち上の相待妙を用ふ」という。次に絶待妙とは「絶待に妙を明さば四と為す。一に(略)三蔵経の中の絶待の意也。二に(略)通教の絶待也。三に別教(略)。四に円教若し起れば、無分別の法を説く。辺に即して而も中、仏法に非ざるはなし、亡泯清浄なり。豈に更に仏法あて(余の)仏法に待せんや。如来法界なるが故に。界の外に出でて復た法の相ひ形比すべきものあることなし。誰に待して麁と為し、誰に形(なぞら)へて妙なるを得ん。待すべき所なく、亦絶する所もなし。知らず、何を名けて強て言て絶と為さん(略)妙は不可思議に名く、麁に因て名けて妙と為すにあらず」と。
ち一切法は皆仏法であって、一は中、他は辺という分別を超絶した不可思議なる所を絶待妙と称す。
麁妙を超えるのは開会によるから、次下に「若し麁を開して妙と顕すには、上の絶待妙を用ふ」という。
これを法華経の文に当てると、方便品の「正直捨方便 但説無上道」、法師品の「已説今説当説而於其中此法華経最為難信難解」等というは相待妙に当り、方便品の「止止不須説 我法妙難思」、「是法不可示 言辞相寂滅」等は絶待妙に当る。
日蓮聖人は絶待妙の法理による世界観の展開よりも、両妙の説不による教法の勝劣の方を重視された。
相待妙は破麁顕妙、絶待妙は開麁顕妙または開会であるとされる点は『玄義』の所説に従う。
しかし相待妙は一分爾前円にも通ずるが、絶待妙は法華円教のみの所説である(定一五六、二〇一、一四三四、二二三〇-三頁等)という主張は『玄義』には稀薄である。
相待妙を釈する中に『維摩経』『大品般若』『涅槃経』の破麁顕妙の文を引く点では、爾前円にも一分相待妙の義ありということになるが、絶待妙を釈する中にも『涅槃経』『華首経』の文を引き、また蔵通別円の四教のそれぞれの絶待妙を列挙するから、絶待妙も爾前経に従浅至深ではあるが、明かすには明かすといえなくもない。
そこで聖人は『玄義釈籤』一〇の「此の法華経は開権顕実開迹顕本す。此の両意は永く余経に異れり」の文により、絶待妙とは開会の意であるというから、絶待妙を今経に限ると判定された(『二乗作仏』定一五六頁)。
ところが『開目抄』では「爾前の円は相待妙・絶待妙に対すれば猶悪也」(定五九五頁)とて、二妙ともに爾前円になく、法華円のみの独占するところであるといわれる。
これは『玄義釈籤』二上の「諸味(に説く所の円)の中には、円融はありと雖も、全く二妙なし」の文意に依られたものと思われる。
爾前経にも相待妙は説くが、浅権であるから、法華円の深遠な破麁顕妙をば説かずともいえるわけである。
かくて聖人は二妙を世界観・人生観に適用するよりも、教判に利用されたから、二妙の中では相待妙の破麁顕妙を宗教として重んぜられたわけで、聖人は絶待妙から降り立って相待妙の修行をされたということを慶林日隆は常に強調した。

(二)相待止観と絶待止観 『摩訶止観』の第二釈名章(巻三上)で説かれるもので、相待止観、では止に息・停・対不止止の三義、観に貫穿・観達・対不観観の三義ありとするが、要するに能止の心諦理と所止の妄念思想、不止の無明と止の法性、あるいは能観の観智と所観の煩悩、不観の無明と観の法性とを相待して止観の概念を示すところで、これを蔵・通・別の前三教の止観の理念とするが、また円教念を体得するに必要な実践的立場でもある。
次に絶待止観とは法華円教止観念である。
「今言ふ絶待止観とは、横竪の諸の待を絶し、諸の思議を絶し、諸の煩悩、諸の業、諸の果を絶し、諸の教、諸の観、諸の証等を絶す(略)待対既に絶す、即ち有為に非ず、四句を以て思ふべからず。故に言説の道に非ず、心識の境に非ず。既に名相無く、諸惑生ぜざれば則ち生死なく、則ち破壊すべからず。絶を滅し、滅を絶す、故に絶待止と名く。顛倒の想断ず、故に絶待観と名く(略)待対すべきこと無き独一の法界なるが故に、絶待止観と名くるなり」と。
円教とは『玄義』境妙の四種四諦のところにもいうように、煩悩即菩提生死即涅槃をその境地とするから、円頓止観も滅絶・絶滅の独一法界のところに念を置かねばならない。
章安灌頂の「円頓とは初めより実相を縁ず。境に造(いた)るに即ち中にして、真実ならざるは無し。縁を法界に繋け、念を法界に一うするに、一色一香も中道に非ざること無し。己界及び仏界・衆生界も亦然り。陰人皆如なれば苦として捨つべき無く、無明塵労即ち是れ菩提なれば集として断ずべき無く、辺邪皆中正なれば道として修すべき無く、生死即涅槃なれば滅として証すべき無し。苦なく集なし、故に世間なし。道なく滅なし、故に出世間なし。純一実相にして実相の外更に別法なし」(『摩訶止観』序)の円頓章も絶待止観を謳ったものに外ならない。
しかしこれは絶待止観のところの最末にも「絶待は乃ち是れ聖境なり」というように、所詮は悟境であり、この悟境に到達するには、「初心は分なからん、今、六即を以て之に望むるに、初心も失ふ所なし」とあるように、止観の実修により六即位の階梯を登らねばならない。
ところが捨つべき苦も断ずべぎ煩悩も、修すべき道も証すべき涅槃もないという聖境を誤解して、これを直ちに現実に当てはめて因果を撥無し、日常の喜怒哀楽の外に止観なしとて止観修行を廃捨したのが中古天台である。
日蓮聖人はかかる堕落的思想に反対する意味もあって三業受持を勧められた。
三業受持末代観心である。
《『遺文辞典』教学篇「相待絶待二妙(そうだいぜつだいのにみょう)」の項、『日蓮辞典』「絶待妙」「相待妙」の項、『天台学辞典』「相待妙・絶待妙」の項、『岩波辞典』「絶対」の項》
(浅井円道)

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