日臨(本妙律師・日臨律師)
日臨(本妙律師・日臨律師)
にちりん
(一七九三-一八二三)
江戸青山に生れ、幼少より学問に秀れた。
最初は朝田薩庵(後に孝賀と名を改め小田原酒匂本典寺に入った)で儒を修め、一九歳の時大工の法華半七を介して下谷宗延寺の重厚日実の門に入った。
向学の志篤く、飯高檀林に進み、玄義部にまで至った。
二二歳の文化一一年(一八一四)に、一切経拝読の願を起して身延山に詣で、更に七面山麓の雨畑(早川町)の深山に入って瀑布を見つけ、ここで七昼夜にわたり苦修練行の結果、大悟するところがあったという。
二年間滞在し、文化一三年京都深草の元政を慕い、法華律の遺風を尊び、訪ねて草山に止住しつつ持律堅固の精進を重ねた。
文政三年(一八二〇)二八歳の時、再び身延山へ登り、波木井孫七・同茂兵衛・宗七ら、地元の人々の外護により、四月八日の釈尊降誕会をトして、身延の東に当る波木井の山中、塩沢に一庵を建立した。日臨はこの庵を「醒悟園」と名づけ、最誠・堯山・孝順・行全らの法兄弟と共に住して法華読誦三昧の本化律を修行した。
『本妙日臨律師全集』によると、世塵を断って持律の義に徹したので、周囲の人々からは一時異流とみなされ、身延を擾乱する者ではないかとの評を受ける程であった。「律師」と称されるに至ったのもこのためである。
醒悟園での生活は文字通りの「止暇断眠」であり、法華経・祖書はもとより広く仏典・注疏を学び、身口意三業における精進を重ねた。
『身延山史』によれば、日臨の用いた机は両臂を入れて座るのに便利よく Π 字形に作り、寝る間を惜しんだという。
また庭に一石をすえて、観法石と名づけ、静座対石して禅定を修したともいう。
更に庵の境内に「から井戸」を掘り、時にこれに座して読書・瞑想・観法をこらしたとも伝えている。
こうした修行による行学二道は、当時としては全く例がなく、異端視される因となった。
この間、著作は三〇余部に及び、主なものとしては宗学関係で『三大秘法弁』『本化別頭教観撮要』『忍草雑記』等その他があり、戒律を扱った『本門自誓受戒作法草案』や、摂折を論じた『当家摂折』及び『妙経観心略解讃』等がその代表的な著述である。
これらの書は書簡等を含め『醒悟園叢書』二巻に収められ、更に『本妙日臨律師全集』にまとめられている。
日臨の教学はほぼ草山の流れを汲んでいるが、一妙日導の思想も受け入れている。
三秘論については、本尊は仏、題目は法、戒壇は処であると分別している。
また修行論においては信をもって成仏を決定し、唱題行によってこれを成就することができるものと解している。
更に信について二意を分け「信心と求推となり、信心は無疑日信也、求推とは深く甚理をたつぬる事にて候」と述べて、受け入れる信と求め進む信とについて論じている。
具体的には法華経の五種修行をもって正行としているが、なかでも受持唱題をもって正行の中の正行とし、一部読誦を助行として、一往分別しているが、本来正行助行というのは機根の能力に応じて説かれたものであるから、上根は分に従って六度三学等の解智を励むべきであると考え、自身は三学分修に精進するに至ったのである。
即ち正像の二時代は機根も勝れているが、末法は劣機が多いので、信心唱題を正行とし、智解を助行としているが、これをあくまで劣機が多いためであるから、末法といえども上根は分に従って、智を助けとしながら修行し、智解をうべきであり、戒律も持つべきであるというのである。
この基本によって日臨自身は学問に志し「一切衆生の学ぶべきもの儒外内」のなかの仏道に精力を傾け、更に「本化律」を守ることに努めた。かくして開悟をえた者は己心即是仏の境界に入ることができるとしている。
日臨のこうした持律堅固な学風は当時の人々に大きな刺激を与え、僧風の向上に役立った。
その門下には近代宗学の大成者たる優陀那日輝を始め多数の人材が出ている。
文政六年に水戸慧日律庵の請招に応じて行き、同年九月一七日に遷化した。年三一歳。
遺嘱により荼毘にして醒悟園に埋骨した。
なお醒悟園はその後、火災に遭ったが復興し、一般に「本妙庵」と称されている。
《『身延山史』、望月歓厚『日蓮宗学説史』、執行海秀『日蓮宗教学史』、宮崎英修『日蓮宗の人びと』》
図版