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本化律

ほんげりつ #3348

本化律

ほんげりつ

京都の深草において元政により主唱された法であり「法華律」ともよばれ、慧明院日燈・本妙院日臨らによって受継がれて行った。
元政は元和九年(一六二三)京都に生まれ、一九歳の泉州(大阪府)妙泉寺の祖像を拝して出家を決意した。
二六歳で龍華日豊の門に入り深草に一宇を建て、世塵を避けて仏道に励んだ。
専ら・定・慧の三学を重んじ、なかでも戒律については、当時一般の風潮として「末法無戒」に走り、全く戒法について顧みる者がなく、出家者としての態度に缺けるところが多かったのを反省し、律と禅と慧を切離してしまっては、仏道を成ずることはできないとして、法の面に力を注いだ。
ち元政は三学の中でも戒がその中心になるものであって、一切の法は法の上に成立するものであるという見解に立ち、こそ諸行の源であるという立場をとった。
えの大乗小乗の違い、及び時代の正・像・末において相違はあるが、を無視するわけにはいかないとして、自ら持律の立場をとった。

また元政によれば今末法の戒というのは、純円一実の妙法をもって戒体としているが、法華以前の諸戒を開会すれば法華の戒として顕されてくるものであり、爾前・法華暫くも相い離れるものではなく、これを妙法の絶待となすのである、としているのである。
またこの法華読誦三昧の戒を「四徳一心不思議戒」と称し、権宗の人師でさえも持戒の者が多い、まして況んや正法の行人が持戒を怠ることは嘆かわしきことであり、日蓮聖人もまた末法に出て律を守られているのである。
在俗の信徒でさえもが肉食をせず、なかには妻帯さえしない者もいる位である。
況んや正法を行ずる者、出家沙門の身が戒を守らずしてどうして三学を身につけたといえるであろうか、という立場の主張をしたのである。
更に聖人が「末法無戒」と説かれたのは、在俗の人々に向って言われたのであって、これをもって直に出家正法の行人も無戒であるというべきではない。
聖人自らが清浄の戒を持たれたことからみても、出家沙門は持清浄たるべきものであるという主張であった。

従って元政は自身はもちろん周囲の人々に対しても酒を禁止し、戒を損すること酒より甚しきはなしとし、五辛を断ち、更に服装についても「草山清規」を設けて、日常の生活を規制した。
『草山集』によると「持第三」に「はこれ万の本、諸行の源なり」とあり、「衣食第四」から住處・知識・誦経・止静・志学・指帰とそれぞれに章を分けて、守るべきことを記している。
例えば誦経では「すべからく一心専念にして音吐遒(しう)亮に文句分明なるべし」とある如くである。
しかし元政は決して律宗の僧と全く同じように持律のみを重くみたのではなかった。
の状態があまりにもを無視した乱れと解怠を生じていたことに対する警告として、こうした立場をとらざるえなかったものと考えられる。
無戒だからなんでもよいという乱れと怠惰の心を引きしめるべく、僧風の浄化を目的としたものといえる。
出家は教えに順はず、妻を帯し子を抱え、輪廻を止むべからず」であり「真正の道人は爪上の土の如し」であった。
このため元政ばかりではなく、友人の正住院日中は、元禄年(一六八八-一七〇四)に身延山西谷に「渓舌律院」を興して、本化律を唱え、自ら一日二食主義を通し、生涯を通して正午過ぎてからは食事をせず、三衣一鉢の清浄をつらぬいた。
またその庵に「不尽読持堂」と標札を表し、常に読誦行を修し四威儀を整え、不染世法の清浄を持った。
更に本覚院日英も京都鳴滝の三宝寺において法華読誦三昧を唱え、同様に本化律を守り、持律厳正に晩年を終っている。

このようにして元政から起った本化律は宗門の中でも清流脈として伝承されていったのであるが、世俗の名誉欲望を離れ、ひたすら出家者としての真正な道をすすむことを目指したことは、官から僧位を贈られることを望んだり、幕府等の外護によって寺領を増大することなどを画していた者、及び無戒の語に酔って眠っていた人々に対しては、まさに一服の清涼剤としての役目を果した点で、大きな意義を持ったものといえる。
こうした諸師による律厳守の実行的宗学は、やがて本妙日臨らを経て、本化の実際的宗学をなすに至った。
日臨は元政の後を慕って深草に止住しその本化律を受継いで身延に登り、波木井山中に醒悟園を開いた。
文政三年(一八二〇)のことであった。
日臨は律師と称せられる程、持律堅固であり、先に文化一一年二二歳で一切経拝読の発願をして身延山へ登り、雨畑の山中で七日にわたり苦修練行をしたと伝えている。
醒悟園にあって、専ら信心唱題を修し、持律の生活を送った。
また・定・慧の三学宗学上の論拠は、日臨の著述の中に見出すことができるといえる。
身延山の醒悟園(本妙庵)における日臨の生活は、まさに本化律の実践そのものであり、最誠・堯山・考順・行全らと共に精進した頃は、一、他の人々から異流として非難される程であった。
徹底した本化律の実践者であったことを物語っているものといえよう。
貞松の日遇はこうした本化律の実践者に対し、「持斉の一事にても通例の人は出来ぬなり、まして三学分修して閑座安心し玉ふこと称嘆するに語なし」と評している。
望月歓厚『日蓮宗学説史』、『身延山史』、『草山集』、『本妙日臨律師全集』》

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