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日珖(仏心院)

にちこう #2819

日珖(仏心院)

にちこう

(一五三二-一五九八)初め竜雲院と称し、改めて心院と号す。
文元年堺の豪商油屋の伊達常玄の子として生れた。
やや長じて同地長源寺日沾に師し一七歳のとき三井園城寺の宥尊、叡山の尊契に学び、南都・京都に負笈し更に神祇祇権大副卜部兼右に神道を学んだが、その学識、徳行諸宗の間に聞え、叡山の尊契はその博識を歎じて見台を贈り、伝教大師が宇佐八幡より授けられたと伝える神宝の紫袈裟を截しておくった。
我宗で紫袈裟を着するのはこれに由来するという。
弘治元年(一五五五)頂妙寺の招請をうけて第三世をつぎ、永禄元年(一五五八)師跡長源寺を再建したが、このころ河内国(大阪府)高屋城によって勢威をふるっていた三好義賢入道実休は日珖の徳行に感じて帰依、受法したが、これより三好一族、同族たる十河は挙げて改宗受法するに至った。
こうした豪族や有力町衆の外護によって名望あまねく、かくして永禄四年柳原資定の斡旋により権僧正に任ぜられるに至っている。
同六年のころより頂妙寺、堺の月蔵寺において法華経義ないし法談を行い、昨五年泉州(大阪府)久米田合戦で戦死した実休の菩提のため、また伊達一族及び先師の供養のため京都・堺において法談、千部読誦会、頓写等を行い、これが縁となって多くの士庶の男女が受法している。
永禄一一年、父常言の発願により妙寺を建立、境内に学問所を設けて学徒に講じ、正元年(一五七三)四月京都頂妙寺が織田信長勢の上京したとき放火にあって類焼したので翌二年三月、堺より木材を運んで再建しここにも学問所をたてた。

日珖はまた正覚院日航、仏眼院日統らと共に長遠寺において録内御書を校合したが、更に当時の碩学山光院日詮、常光院日諦と共に輪次に天台三大部を講じ学徒を雲集せしめた。いわゆる三光無師会三光勝会)である。
日珖は一般には強義折伏を排した寛容な摂受主義の人で天台学を中心とする近世日蓮宗学を築きあげた人物と評せられているが、最初から摂受主義の人であったわけではなく、初めは極めて強硬な折伏主義者で、かの三井の宥尊は日珖が京都において盛んに念仏無間の法門を説いているのを見聞し「不審なる事なり、日珖に我は念仏無間法門を教えぬが何とてその談義をばするぞ」嘆いたというのを見ても知られよう。
日珖の行った宗論に有名なものが二つある。
『三好別記』『昔阿波物語』その他に述べられている阿波宗論と、信長の命によって行われた安土宗論である。
阿波宗論とは天正三年九月のころ、三好実休の子阿波国主三好彦次郎長治は真言、禅宗の盛んであった同国を法華宗たらしめんとし「阿波一国の衆、生れ子まで日蓮宗になし法華経をいただかせ他宗の寺へ出入することを許されず」(『三好別記』)という程の強力な態をもってのぞんだらしい。
ために同諸宗の僧侶が騒ぎだしたので長治は宗論をもって結着をつけようとし、帰依僧である日珖を呼びよせたのである。
日珖の自記『己行記』によれば天正三年九月一三日、日珖は近江の坂本で法談を行い、そののち三井寺に行っていたが長治の使をうけて直ちに堺に帰り、二五日出船、二七日の夜阿波(徳島県)板野の勝端(章瑞)城の長治のもとにおもむいている。
かくてまず浄土宗宗論してやぶり、長治より「理運の感状」即ち宗論をして勝った賞状をもらい、一〇月早々高野山から呼びよせられた学匠円正なる人物と三問三答を番(つが)えてのちこれを敗ってまた「理運の感状」をもらい六日勝瑞をたち、八日堺にかえり諸所の高座で阿波宗論の始末を披露し、いよいよ折伏の法鼓をならした。
次に安土宗論は周知のごとく天文法難の大打撃にもかかわらず急速に復興、倍旧の勢威を示している日蓮宗に対し、織田信長は制覇の上に危惧を感じ、かねてより不和にある浄土宗宗論させ敗論に陥れて精神的大打撃を与え併せて逼塞せしめようとして企画したものであった。
正七年五月二七日、信長の命により日蓮宗より日珖・日諦・日渕、浄土宗より玉然・貞安らが出て宗論したが予定の如く無法の敗論宣告をうけ、三人は捕えられ、宗論に関係した僧侶三名は斬首された。
信長は日珖らに対し宗論に負けたという証文を書け、かかねば諸方に捕繩囚禁している宗門の僧俗の首を切り領国内の日蓮宗寺院を破却すると脅迫した。
日珖らは日頃信長の酷薄残忍な所行を実際に見聞しているから、遂に証文を出すに至り、このため日蓮宗は天下の笑いものとなり、関西の日蓮宗は火の消えたように雌伏してしまった。
もなく正一〇年六月二日信長は明智光秀のため本能寺に自刃せしめられたが同一二年七月、豊臣秀吉は日蓮宗の出した証文は不当にして無効であると判決を破棄し証文を没収し、日蓮宗は従来のごとく弘通活動すべきを令したのである。
日珖は安土宗論における国家権力の強力にして無道の抑圧を身をもって体験し、宗門伝統の強義折伏は今の世にはかえって宗門を破滅にみちびくものであり、折伏をすてて摂受によるあらざれば宗命を相続しがたいと諦観した。
かくして諸宗無得道、法華独一成仏義をやわらげ円体無殊、円融開会、広学多聞の通的方法による宗義研鑽の学風をかもし出したのである。
日珖は関西における日蓮宗諸派の長老であり指導者であったから、この学風は関東の伝統学に対し通常関西派、また泉南学ともいわれる。

日珖はまた中山門流に属していたから、開山日祝以来中山の動向については別して注意するところがあった。
あたかもの貫主一一世日典に霊宝、什物散乱の聞えがあったので文禄二年(一五九三)これを康に訴えた。
康は日典を長門(山口県)萩に謫し、京都頂妙寺・本法寺・堺妙国寺の上方三山をもって輪番住持せしめ関東諸山の中山への介入を抑制し、初代輪番住持として日珖に入山を命じた。いわゆる中山輪番制がこれである。
これより中山は三山の支配下に入るが関東における中山門流諸山はこの輪番制を破らんとして種々に画策し、これに受・不受の問題がからんで安定するところがなかったが、寛文五―六年(一六六五-六六)不受不施禁制、いわゆる寛文惣滅に及んでようやく混乱は一応の結末をつげたのである。
日珖は慶長三年八月二七日六七歳をもって入寂したが、中世より近世にかけて転変する日蓮宗を宗制、教学にわたって指導し活躍した中心人物で、著書には『己行記』『神道同一鹹味抄』『安土問答記録』(正本頂妙寺蔵)『文句無師』その他がある。
《『日蓮団全史』上、執行海秀『日蓮宗教学史』、宮崎英修『不受不施派の源流と展開』、同『日蓮宗徒群像』、『日本仏教人名辞典』「日珖」の項、『史大辞典』一一巻「日珖」の項
(宮崎英修)

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