己行記
己行記
こぎょうき
一巻。
仏心院日珖(一五三二-一五九八)著。
正本堺妙国寺。
永禄四年(一五六一=三〇歳)より天正一三年(一五八五) に至るまでの二五年間の日珖の自記。
『宗全』一九巻所収。
京都・堺を中心とする戦国末期の社会情勢、及び教団の展開・動向を知る上で貴重な資料である。
特に当時の日蓮教団の中心人物であり、近世教団形成の起点に位置づけられている日珖の年々の記録であるところに大きな意義がある。
堺の豪商油屋伊達常言の子であるところから油屋珖師と称される日珖は、南都北嶺に学んでその才を発揮し、二四歳で頂妙寺三世となり、天文法難後の教団復興に尽力し、永禄の規約(永禄七年の各門流一味同心の和睦の条約)の成立に働き、堺に妙国寺を建て学室を構えて人材養成に当った。
この『己行記』は彼が権僧正に任ぜられた三〇歳の時からの記録であり、永禄七年の記をみると、「八月五日、一致勝劣和談の内談の為上洛、六日京に着き、即方々と内談」等と書かれている。
元亀年間に日珖は堺で山光院日詮・常光院日諦と共に天台三大部の講義を始めた。
これが有名な「三光無師会」で、天下の英才が会下に参じ、近世教団の思想的潮流を生みだしたのである。
聴講の学徒の中から教団中興の祖といわれる一如日重が出ている。
元亀二年(一五七一)の頃には新たに学室を築いた記事に続き、「九月より歳暮に至り文句の講談竟わんぬ。
玄義の序始めて行う」等の記録がある。
日珖にとって最大の試練は安土宗論であった。
それは教団の存亡に関わる大事件で、天正七年(一五七九)信長によって浄土宗との法論が命ぜられ、日珖は本宗の代表として対論し、信長の計略によって禁獄、負け証文を提出させられた屈辱の事件である。
『己行記』はこの法難も記録され、信長の死後、秀吉の代に請願し、ついにこの負け証文を取返して一宗安堵した天正一三年、秀吉からの名誉回復の一札を載せて終っている。
この記録は箇条書きの簡単なものだが、教団史資料として第一級のものであろう。