永禄の規約
永禄の規約
えいろくのきやく
永禄七年(一五六四)八月二〇日、本迹の一致・勝劣の対立の中、諸寺合意のもとに両派の和睦を旨として締結された条目をいう。
これより以前寛正七年(一四六六)二月一六日、教団は諸門流一味和合の盟約、いわゆる寛正の盟約を結んでおり、一致・勝劣両派の和融は、今回で二度目ということになる。
この寛正の盟約は、延暦寺僧徒に対抗するための結束を主として急ぎ結ばれたものであったため、教学面では本迹問題に深く立ち入らずに和睦しており、時宜を得たまことに賢明な方策ではあったが、反面両派の妥協の上に成立した点も少なくなく、必ずしも当時の教団内にみられた一致派・勝劣派を問わぬ派閥抗争を完全に根絶したものとはいえなかった。
文明一四年(一四八二)には本国寺が身延山と法派の正閏を争い、延徳元年(一四八九)には妙本寺から日真が勝劣派の立場に立って分立し、四条大宮に本隆寺を創したのを始め、日真門流・本隆寺派の成立をみせるなど、その現れである。
このように本迹一致勝劣の論が再び盛んに行われるようになってくると、一五〇〇年代には一致勝劣両派で、共に対論のための用意書まで著述せられるという有り様をていし、寛正の盟約は名実共に崩壊してしまった。
しかしその後、一致勝劣両派内部では、派内の門流相互の和融が進められるようになり、特に天文法難を経て京都に一五本山が復興してくるようになると、勝劣派にみるべきものがあった。
天文一二年(一五四三)の本隆寺日映と本禅寺日覚の通用、要法寺日辰による永禄五年(一五六二)の、富士重須と西山の両本門寺の不和調停、などである。
こうして勝劣派において和融運動が盛んに行われるようになり、その結果が固くなってくると、京都の勝劣派ではしきりに迹劣本勝の説をもって一致謗法を説き、一致派に対し、論難を加えるようになってきた。
そして本国寺の釈迦堂落慶式に際しては、本国寺に伝える聖人の随身仏である「立像釈尊」と「御譲状」を偽作であると批難し、対立を一層深めたが、このことが両派の調停を進めるきっかけともなった。
即ち本国寺はこれに対応し論争をくり返したが、おさまるところがなかったので永禄七年二月、檀越松永久秀とその主君三好長慶にこのことを訴え、お互いに悪口・謗言を止め和融するよう斡旋を依頼したのである。
また堺にあった仏心院日珖も、教団の復興再建途上におけるこうした内訌を憂い、上洛し諸寺の説得に努めた。
更に将軍足利義輝も長慶・久秀に両者の調停を命じたので、同年八月四条東洞院今村紀伊守泰久の館に諸寺代僧が集合し、竹内三位・今村紀伊守ら列座の席において、三ヵ条からなる両派和融の条目を定めることとなった。
これが永禄の規約といわれるものである。
正式には「一致勝劣都鄙和睦之条目」といい、第一条に「法華経一部八巻二十八品の肝心、上行所伝の南無妙法蓮華経をもって、一味同心して広宣流布を祈り奉るべきこと」、第二条に「法理すでに一統の上は、自讃毀他、私曲・謗言たがいに停止せしむべきこと」、第三条に「諸門和談の間、本末衆徒檀那たがいに誘取すべからざること」を内容とするものであった。
ここにおいて寛正の盟約以来の一致勝劣両派の和睦をみるのである。
ところで、この当時の教団は、天文法難後の復興途上にあって、有縁の檀那の自他門去就不定を容認するという消極的な摂受的態度をとっており、また諸寺の復興においては公武その他の有力者の力が少なくなかったため、権威に迎合してその意にたがわぬように心がけねばならなかった。
そのため一致と勝劣との和睦に重点をおいて門流相互間の粉争を解決するには、自主的には不可能であり、他律的に、しかも権威の力による斡旋解決しかなかったと思われ、そこでは互いに自讃毀他すること、他人の弟子檀那を誘取することを禁ずるということが、解決の即ち両派和融の最大の要件となったのである。
これが永禄の規約における特色といえよう。
また寛正の盟約が教団内部の内省自覚から結ばれたのに対して、この規約が教団内部の抗争から起ったにもかかわらず、外部の有力権威、幕府の力をもって結ばれたのも、こうした教団を取りまく状況のためであった。
ともかく永禄の規約によって、一致勝劣の和睦がなり、これを機として本能寺と妙顕寺が更に親交を誓うなど、その後の一致勝劣和融運動に多大の効果をもたらした。
近年、関係史料の見直しや発掘によって「永禄の規約」の成立経緯や教団史上の意義の再検討を迫る論稿(都守基一「永禄の規約をめぐる中世日蓮教団の動向」『興風』一八号)が出された。
《宮崎英修「永禄の規約と竹内三位」『日蓮宗の人びと』》