松永久秀
松永久秀
まつながひさひで
(一五一〇-七七) 戦国時代の武将。
三好長慶に仕え、その女を妻とし、各地に転戦し堺の代官となる。
永禄二年(一五五九)大和に進み、奈良に多聞城を築き、翌三年弾正正弼、長慶の家老となった。
永禄六年には長慶の子義興を毒殺し、同八年、長慶死後幼主三好義継に勧めて将軍足利義輝を殺させるなど専横をきわめ、畿内にその勢威を張った。
永禄十一年織田信長が将軍足利義昭を奉じて入京した際にはこれに降り信長をたすけたが、天正五年(一五七七)信長にそむき居城信貴山城で敗死。
松永久秀は将軍を殺し、主家を倒し、社寺を焼くなど叛逆の人、暴将との評があるが、下剋上の当時としてはとくに非難される態度ともいえず、一方では町人と結んだり、文芸に長ずるなど経世の術にもたけていた。
また日蓮宗の大信者で京都本国寺の大檀那としても知られる。
永禄五年の前後、京都の日蓮宗では一致・勝劣の両派間で、宗門正嫡・正統性をめぐって対立が続いていた。
教団は両派の協調和融に努め、ついに同七年、諸寺合意のもと、両派和睦し条目が締結され、一味同心に広宣流布に遭進することが約された。
これを「永禄の規約」というが、このとき両者の間に立って和融の途をこうじ、その斡旋を強力に推し進めたのは、ほかならぬ松永久秀である。
《宮崎英修『日蓮宗の人びと』、『国史大辞典』一三巻「松永久秀」の項》