三光無師会
三光無師会
さんこうむしえ
別名を三光勝会ともいう。
永禄二年(一五六八)堺の仏心院日珖は父の発願により妙国寺を建立し、当時の碩学・山光院日詮、常光院日諦の二師を招き、三師が互いに輪番で講主を一定せず、堺の妙国寺の僧侶のために天台学を講義したその講義集会をいう。
これは後に江戸時代の檀林興隆を促進した。
日諦の門人日厳はその講義録二五巻をまとめ『文句無師』を作った。
これは別名『三光無師書』という。
三講師の日珖・山光院・常光院と光の字が通じるところから、人呼んで三光無師会または三光勝会といった。
元和三年(一六一七)八月に妙国寺五世竜雲院日現が幕府に御朱印地下賜の願書を出している中に、日珖は「其の時分宗旨の中、旨方能化両人招待され、日珖と三人の能化衆、この頂源寺において替々始めて六十巻の講釈候所に、屋敷は三好実休寄進、伽藍は油屋建立候て妙国寺出来候、妙国、大寺に候間三人之衆、并びに諸国より相集る数十人の聴聞の衆、妙国寺の一院へ相移され、都合八年に相違なく、天台の三大部成就仕候」と記している。
「妙国寺の一院」とは竜雲院で、「旨方の能化両人」とは日諦・日詮であろう。
また『文句無師』によれば、文句の講義は永禄一一年(一五六八)一一月四日から頂源寺で始められ、四日は日珖、五日は日諦、六日は日詮の順で、次に八・九・一〇というふうに講義が行われ、休講期間の長短や講師の順序の変更もあるが、元亀二年(一五七一)一二月一七日勧発品の日詮の終講で『文句』を終えている。
また同三年六月に『玄義』、同四年五月に『止観』を終えている。
『文句無師』は永禄一一年一一月四日から筆録されているが、実際は一〇月二六日から始められている。
三光無師会または三光勝会の名は後人がつけたものであり、草山元政は三光勝会の名を記しているから、日重・日現以後この名がいわれたのであろう。
この三光無師会の講義を受けた中に、舜孝・尊秀・哲境・日千・日諝・日重・日厳などの英才が出ている。
なお日珖は堺の豪商油屋伊達常言の子で、天文元年(一五三二)に生れ、長源寺日沾に師事、三井の尊契に学び、卜部兼石に神道をも学んでいる。
弘治元年(一五五五)頂妙寺三世を継ぎ、また頂源寺を再興し権僧正になっている。
更に日珖は正覚院日航、仏眼院日統と共に長源寺で録内御書を校合している。
《『日蓮辞典』「三光無師会」の項》