本法寺法式
本法寺法式
ほんぽうじほっしき
一巻。
久遠成院日親(一四〇七-八八)著。
仮名書と漢文の二種がある。
京都本法寺を伝道の拠点としていた日親は、文明一六年(一四八四=七八歳)八月一三日仮名の『本法寺法式』一八条を制定して門徒に提示した。
更に文明一九年正月一九日、先の法式とほぼ同内容の一七条からなる漢文の法式を定めた。
この法式とは法度(はつと)、掟のことである。
両者どちらも日親の直筆ではなく弟子が筆記したものだが、仮名書のものには袖に日親の花押が書かれている。
この『本法寺法式』は中世日蓮宗教団の寺院形態を知る上の好資料であり、また「なべかむり日親」の折伏伝道に一生を捧げた、その成果と教団維持の苦労をみることができる興味ある資料である。
両者共正本本法寺所蔵。
日親は中山門流で出家して頭角を現し、二一歳で京都一条戻橋で説法を始めて波乱の第一歩を踏み出した(『日親上人徳行記』)。
彼の激しい折伏伝道は門流上層部から嫌われ、三一歳の時、中山門流から破門され、日親は国家諫暁をめざして京都に上り、洛中に弘通所を構えて布教伝道に当った。
この弘通所が本法寺の前身であり、後に発展していくのである。
ただしこの弘通所は幕府に二度も破却されている。
日親はここで将軍足利義教への諫暁書『立正治国論』を清書中、永享一二年(一四四〇)二月捕縛され、有名な法難を受けるが、一年後許されて破却された弘通所を再建する。
この時、本法寺の名を称したという(『日親―その思想と行動―』)。
この弘通所の場所並びに本法寺創建の時期については定かではない。
『法華諸本山の成立と法華一揆』には、狩野叡昌の娘理哲尼の外護によって法難前後四条高倉に弘通所を持ったとあり、『日本仏教史』中世編四では初め四条綾小路とされ、前掲『日親』では三条綾小路万里小路とある。
建立時期についても不明で、早い説は『日親上人徳行記』(仮名本)に永享八年の日付がみえる。
しかしこれはまだ早すぎるようである。
ともかく寛正元年(一四六〇)には日親居住の「本法寺」が二回目の破却をされていることは確かで(『蔭涼軒日録』)〉、それ以前に本法寺は成立していた。
その場所については、本法寺は弘通所時代から何度か移転しているが、この『本法寺法式』が作られ、長享元年(一四八七=八一歳)の本法寺の拡張整備が計られた時の隆盛時の寺は、寛正の破却のあと再建された「三条万里小路本法寺」であったのである。
幕府の弾圧にもめげず本法寺建立のエネルギーとなったのは、当時の町衆の法華信仰であった。
特に日親の不惜身命の果敢な伝道は京の町衆を燃えたたせ、そのなべかむりの逸話は町中の話題をさらったのであろう。
富裕な商工業者が続々と本法寺の外護者となった。
その中で特に有名なのは本阿弥家の帰依である。
本法寺はこうして日親が二度目の禁獄から許されて出た(一四六三)あとは、日に日に盛大となり、寺内も他宗他門流からの帰依僧、在家からの出家者らで満ちていった。
日親の晩年はこの僧団の教導、全国に広がった門流の統率に追われていたようである。
『本法寺法式』はその寺内に住む門弟達の規律を定める必要から生まれたものである。
これを読むと本法寺僧団の日常生活に周到な心配りがされている。
今、主な箇条を拾って意訳してみると。
一、朝昼晩の三時の勤行には欠席してはならない。
特に朝勤には必ず出席せよ、欠席したものは所定の罰金を支払うこと。
一、本堂の番衆は香・花・灯明など一年中絶やしてはならない。
一、行先を知らせず他所に宿泊してはならない。
一、檀家から招かれて法事に赴いた僧は供養が終れば早々と寺に帰ること。
一、遠出をする時に十徳などの俗衣を着用してはならない。
一、本法寺の寺内に坊舎を建立したものは、万一過失があって寺を追放されることになっても、その建物を門外に運びだしてはならない。
一、僧衆の訴訟は僧侶の間で取扱うべきであって、俗人はこれに干与してはならない。
一、本法寺の僧衆に入るにあたって、本法寺で得度した者は、入衆の時銭百疋、他門流他宗派から帰伏する者は、銭二百疋を奉納すること。
一、本法寺の貫首の直弟子・孫弟子について、孫弟子は直弟子の二臈ほど下座に居るべき事、等。
仮名『本法寺法式』には本法寺に僧房を持ち、弟子を養いながら日親に仕えていた高弟が連署をしている。
数えると円陽房日祝以下二三名にのぼる。
この外、孫弟子若輩新発意ら、ここに名を連ねることのできない数多くの者達がいたはずである。
全体で本法寺だけで百数十人の僧団であったろうとの説がある(前掲『日親』)。
そのように大きく成長した本法寺では、日々種々の問題も起り、また秩序を整えるためにも、禁制・規則を定めることは必然の要請であったのであろう。
日親は生涯三〇余ヵ寺の寺院を建立している。
本法寺はその三〇数ヵ寺の寺院に僧を派遣し監督したりする地位にある。
即ち日親によって本法寺を中心とした教団組織が形成されていたのであり、その組織を維持するためにも『本法寺法式』は必要であったのである。
漢文『法式』を制定した年、八一歳の日親は、集まる弟子信徒で狭小になった本法寺を、「永代不朽之宝所」(『本法寺縁起』)とすべく大規模な拡大計画を実行し、自己の法華弘通の一生を披瀝した『本法寺縁起』を著して、内外門徒に示し、勧進にのりだした。
「一閻浮提無双の行者」(同上)のために、京の町衆は先を争って喜捨したであろう。
『本法寺縁起』起草の翌年、長享二年(一四八八)九月、日親は八二年の激動の生涯を閉じた。
本法寺は高弟日祇に委嘱し、一致して教団の発展に尽すべきことを遺言している。
《中尾堯『日親―その行動と思想―』、藤井学『法華諸本山の成立と法華一揆』、辻善之助『日本仏教史』中世編四》(小野文珖)