日朗(筑後房・大国阿闍梨)
日朗(筑後房・大国阿闍梨)
にちろう
(一二四五-一三二〇)
日蓮聖人の最高弟、六人の本弟子(のち六老僧とよぶ)の一人。
日朗門流(比企谷門流―のち池上門流とよぶ)の派祖。
筑後房・大国阿闍梨・正法院と称す。
寛元三年(一二四五)四月八日、下総国(千葉県)海上(うなかみ)郡能手郷に平賀有国の子として生れ、母は能手の領主印東祐昭の次女、のちの妙朗尼と伝えるが、定かでない。聖人の弟子のなかには、もと天台宗などの既成教団の僧であった者と、最初から聖人の弟子として入室した者とがあるが、日朗は後者と考えられる。さすれば聖人の檀越某の子息であったといえよう。
ただし、入室の時期は明らかでない。伝承では、建長六年(一二五四)入室、文応元年(一二六〇)出家という。
遺文中、筑後房の名の見える最初は、無年次一〇月三日付の「五人土籠御書」で、その上封に「五人御中ちくこ」(定五〇六頁)とあるのが、それである。
この書状は、内容からいって文永八年(一二七一)のものであることは明らかである。
同年九月一二日鎌倉幕府は聖人を逮捕、やがて斬首の危難に臨ませ相模依智(えち)に拘引、更に佐渡に流すという一連の措置をとった。
この書状は依智の拘留中、一〇月七日佐渡に進発することを報じていると共に、旧暦一〇月の夜寒を感ずるにつけて、五人の身の上を案じ「心くるしさ申ばかりなし」といい、「ろう(牢)をいでさせ給なば明年のはるかならずきたり給へ。みみへまいらすべし」(定五〇六頁)とよびかけている。
これによって当時日朗が他の四名と共に召籠(めしこめ)=投獄されていたことは明らかである。
聖人は逮捕され、中止されたが斬首の危きに遭い、佐渡に流された。
このとき聖人の門弟もまた弾圧されていて、「文永八年の法難」とよぶ理由もそこにあるが、弾圧の対象が門弟のなかで、きわだった弟子や檀越であったことはいうまでもない。
日朗が門弟のなかできわだつ弟子であったことは、右のように、入牢の憂目に遭遇したことによっても明らかである。
赦されて出獄した時期は未詳だが、文永一〇年八月三日付の『波木井三郎殿御返事』(日興写本)の端書に「鎌倉に筑後房・弁阿闍梨・大進阿闍梨と申す小僧等これあり。これを召して御尊びあるべし。御談義あるべし。大事の法門等粗ぼ申す。かれらは日本に未だ流布せざる大法少々これを有す。随て御学問注し申すべきなり」(定七四五頁)と記されている。
この歳の八月三日以前に出獄したことを、これによって知るが、日朗が弁阿闍梨日昭や大進阿闍梨とならび、日本に流布していない大事の法門を申すことのできる高弟であり、従って指導者であったことも知られるのである。
日朗は聖人の佐渡流罪中も身延入山後も鎌倉にあって、師の教えを弘めた。
弘安三年(一説に弘安二年)と推定される『両人御中御書』の両人とは、日朗と衛門大夫志(えもんのたいうさかん)=池上宗仲を指し、両人の計らいとして、故大進阿闍梨の坊舎を日昭の坊舎へ移築することが命じられている。
このとき、聖人は日朗を大国阿闍梨とよんでいる。聖人が有力な弟子に阿闍梨号を与えたことは、伯耆房日興に伯耆阿闍梨・白蓮阿闍梨と名乗らせ、甲斐公日持に蓮華阿闍梨の号を授け、かつ大国・白蓮・蓮華の三阿闍梨が本弟子=最高弟六人のなかに指命されたことによってもわかろう。阿闍梨とは、もと教授の意味をもち、指導者たるを示す。日朗は名実共に、聖人最高の弟子として、鎌倉で弘通していた。
日朗は弘安五年一〇月八日、本弟子六人の一人に指命され、同一三日聖人の示寂にあい、翌一四日その葬送の列に加わっている。
ときに日朗は、輿にのせられた聖人の棺(ひつぎ)の前陣として歩いている。
次いで御遺物配分=かたみわけのことがあり「御本尊一体 釈迦立像」を分け与えられた。
生前望まれたように、聖人の墓を身延に立てるべく遺骨を捧じた一行は同一九日池上を出発、二五日これを納めた。このとき日朗が同行したかどうかは未詳。
これより先の同月一六日付の日興筆『御遷化記録』の最末には、「御遺言云」くとして、立像釈尊・私集最要文=注法華経を墓所の寺に置き、注法華経は六人(本弟子)が香華の番の時、これを披見することを命じたとある。これによれば本弟子六人が墓所に香華を供える番に当ることは、聖人の遺志であったことになろう―静岡市池田本覚寺蔵の日位筆『大聖人御葬送日記」には、このことは記されていない―。こえて弘安六年正月、日朗は日昭・日興・日持と共に、月毎の聖人の墓番を定めた。このとき本弟子に指命された日向(にこう)・日持は「他行」のため、これに連署加判していない。日朗は二月の番に当っていたが、この輪番は一周忌はともかく、聖人三年忌をまつことなく挫折してしまった。
弘安七年日昭・日朗は、この歳没した北条時宗にかわって執権となった北条貞時に、聖人三年忌の報恩に擬して、広本『立正安国論』を上呈したらしい。
広本『安国論』は、初撰本にあった浄土教批判と共に、法華仏教と密教の優劣を決定している点に特色があり、この上呈の結果、浄土教徒や密教徒による抑圧が行われ、日朗らの住坊破却の動きがおこったのである。伝えられる二人の申状(もうしじよう)によれば、日昭は天台沙門と名乗り、題目弘通の許可を申し請い、戦いをとどめ、副将=副将軍=執権の安全を祈ることを上申し、日朗もまた、「天台沙門」の名のもとに、題目弘通の許可を要請した。しかし、日興は永仁六年(一二九八)の時点で、「聖人の弟子の中に五人は、一同に聖人の御姓名を改めて天台の弟子と号し、ここに住坊を破却せられんと欲するの刻、天台宗を行じて、御祈祷を致すの由、おのおの申状を捧ぐるによりて、破却の難を免(まぬか)了んぬ」(原漢文体)と非難している。当時の鎌倉には諸宗が共存し、かつ政治権力者の外護も得ていたから、強義に終始できず場合によっては、協調的態度をとることもあったであろう。
日朗は鎌倉に坊舎をもっていたと推察されるが、その所在地はわからない。
のちに比企谷に法華堂を開創、これがのちの妙本寺であるが、その経緯は明らかでない。「釈迦堂供僧補任状」が妙本寺に伝えられるところからすれば、日朗の教化により、この釈迦堂の僧たちが改宗して、〈釈迦堂→法華堂→妙本寺〉となったのではなかろうか。
日朗は聖人生前から、武蔵国池上郷(東京都大田区)の地頭池上宗仲と交渉があった。その縁で聖人没後、宗仲は日朗を師と仰ぐ檀越になったと考えられる。
この師檀両者が協力して聖人示寂の地池上に法華堂を創めた。池上本門寺がこれである。
同寺の聖人御影像(みえいぞう)胎内の聖人遺骨を納める唐金(からがね)筒の銘に「大別当 大国阿闍梨 日朗」、「大施主 散位(さんい)大仲臣(おおなかとみ)宗仲」、「大施主 清原氏女(うじのむすめ)と刻され、像底銘文には造像の大願主二人として「侍従公日浄」、「蓮華阿闍梨日持」の自署花押があり、正応元年(一二八八)六月八日の年月日が記されている。この歳は聖人の七年忌に当り、その報恩に擬して、日持・日浄が発願して御影像を造立、その胎内に遺骨が籠められたのである。筒銘によれば日朗は「大別当」であった。別当とは堂または寺院の最高主管者の呼称である。このことと御影像造立とを結びつければ、聖人七年忌に際して御影像が造顕され、それを安置する御影堂があり、その別当が日朗であったと考えられ、この御影堂を中核として、池上本門寺に展開していったといえようし、この正応元年をもって、本門寺創建の時期と考えてよいであろう。
一方、下総平賀にも日朗に関係ある法華堂があった。
『平賀本土寺継図次第』『当家諸門流継図』によれば、同地の曽谷法蓮日礼は地蔵堂を改めて法華堂とし、日朗を請じた。日朗は弟子大円阿闍梨本覚房日伝(一二七五-一三三九)をしてこの法華堂を管理させた。のちの本土寺がこれである。
右の『継図次第』では、法華堂開創を建治三年(一二七七)とし、日朗が諸事をとりはからい、代官として日伝を遣わしたという。
日伝の平賀に赴いた時期は明確ではないが、かりに建治三年だとすれば、同書では日伝示寂を暦応四年(一三四一)六五歳とし、本土寺蔵日伝筆と伝える『十二因縁抄』末尾の識語に元享二年(一三二二)「生年六八」=四八歳と記されていて、いずれをとっても、建治三年当時は僅か二、三歳の幼童であって、右の平賀下向があったとは考えられないし、平賀法華堂創建が聖人生前のこととは、これまた考えられず、後年の開創とすべきであろう。
しかしそれにしても、比企谷長興山妙本寺・池上長栄山本門寺・平賀長谷山本土寺の三寺はのちに三長三本と称せられたように、日朗門流の三大拠点であったのである。
こうして、日朗は三寺を形成して、教線を伸張したばかりでなく、弟子の育成に努めていった。
弟子の最たる者を、古来、朗門の九鳳・九老僧と称している。
日像・日輪・日善・日典(伝)・日範・日印・日澄・日行・朗慶の九名がそれである。
なかに日像は、日朗に就いたが、晩年の聖人にも就学し、のち京都に教えを弘めていった。日朗はこの日像の動静を心にかけていて、師弟の間に書状がたびたびとりかわされている。更に日印はこの門流を離れ、越後本成寺・鎌倉本勝寺を創建、その弟子日静は京都に教えを弘め、日像の四条門流にならぶ六条門流を形成していく。
京都日蓮宗のルーツは日朗であった。
日朗は元応二年七六歳で示寂した。忌日は一月二一日と伝える。
日朗の妙本寺・本門寺の跡を継いだのは日輪であった。
《『日蓮教団全史』上、宮崎英修『不受不施派の源流と展開』、同『日蓮宗の人びと』、高木豊『日蓮とその門弟』、『遺文辞典』歴史篇「日朗」の項、『日蓮辞典』「日朗」「土籠御書」の項、『昭和新修』別巻「筑後房日朗」の項、『日蓮聖人大事典』「日蓮聖人と六老僧」の項、『日本仏教人名辞典』「日朗」の項、『国史大辞典』一一巻「日朗」の項》
(高木豊)
図版