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身延山御書(四三二)

みのぶさんごしょ #4881

身延山御書(四三二)

みのぶさんごしょ

日蓮聖人が弘安五年(一二八二)八月二一日に身延山で六一歳の、著作されたものであるとされている。
入滅の約二ヵ月程前の著作であって、聖人にとっては、身延代の晩年、最後に近い著述であったことになる。
真蹟は伝わっていないが、聖人の滅後一〇〇年頃に編集された『録内御書』の中に収められており、日意の写本が京都の妙伝寺に所蔵されている。
但し述作の年代については『啓蒙』に、「此書古本に治元年八月廿一日とあり」とあって、治元年(一二七五)聖人五四歳のの作であるとする説がある。
『祖書目次』(建立日諦編)、『新撰校正祖書目次』(智英日明編)、『新定祖書目録攷異』(便妙日謄編)及び小川泰堂の『高祖遺文録』は、治元年説をとっている。
身延記』または『身延山記』とも称されているが、鈴木一成の研究によると、境持院日通の『境妙庵御書目録』にある弘安五年説を是認し、御書の内容等を考証している。
ちこの御書は身延即霊山を主張したものであり、最初に「誠に身延山の栖は、ちはやふる神もめぐみを垂れ天下りましますらん」という言葉で始まっているように、身延山の状景を優美流麗な文体でつづり「伝へ聞く釈尊の住み給ひけん鷲峰を我朝此砌に移し置きぬ」と述べ、身延は霊山浄土であるとの説を表している。
鈴木一成によれば、聖人が身延へ入山された初期は、身延山を迫害の継続の場として感受されており、当処から身延霊山であるというようには考えておられなかったのではないかとしている。
中期に入ると身延山の雄大な美景をたたえつつ、閑寂な生活の場として感受されるようになり、更に晩年に至ると身延霊山なりとして高揚されていったものとしている。
この三つの段階をへて最後に身延霊山の説にまで到達したと考えられている。
身延の自然の雄大であるということと、また身延の生活が貧寒であるという感慨は終始変らないものとして基本にあったが、年次をへて年齢を重ねるに従って、山容の観賞や生活の環境も次第に純化され美化されて、ついに霊化され霊山浄土として見られるに至ったものとしている。
従って入山もない治元年にあてることは妥当でなく、霊山思想のピークとして、身延出山の直前たる弘安五年八月に置くべき御書であるとしている。
次に本書の内容を見ると、第一段は前述の通り身延霊鷲山に擬しており、第二段は西谷の草庵における生活の一端を叙し、更に昔釈尊が悟りを得るために修行された時の状況を述べて、提婆品に出てくる阿私仙人に仕えて、木の実を採ったり水くみや薪を拾って給仕した結果、妙法五字を得ることができたということに比しているのである。
第三段では「実にになる道は師に仕ふるには過ぎず」と述べ師に対する給仕の重要なことを強調している。
妙楽大師の『止観弘決』の文や天台大師の『摩訶止観』の文を引用して、苦修練行の様子を説いている。
この二・三段は共に過去における成仏への道は苦行にあることを説いたものである。
第四段では「皮をはぎ、肉を切り、千歳仕へざれども」一念三千の法門・皆成仏道の妙法を学ぶことができるとしている。
第五段ではが生母摩耶夫人の恩を報ずるために、俄かに忉利天へ昇ったところ五天竺の人々みな、仏の姿がなくなったことを歎き、仏の木像を作ったこと、及び須達長者と祇陀太子の故事を挙げ、更に祇園精舎における貧女の一灯の例を挙げて「たのしく若干の財を布施すとも、信心よはくば仏に成らん事叶ひ難し。従ひ貧なりとも信心強ふして志深からんは仏に成らん疑ひ有るべからず」と記している。
第六段では末代濁世の謗法・闡提・五逆の罪を犯した者は、法華経によってのみ救われるのであり神力品の「我が滅度の後に於て斯の経を受持すべし、是の人仏道に於て決定して疑有ること無けん」の文を引き、この文こそまことに頼もしき文であると述べ、法華経の受持によって末代のすべての者が成仏をうることができることを明らかにしている。
かくして最後に「立わたる身のうき雲も晴ぬべしたえぬ御法の鷲の山嵐」の歌が添えられている。
この歌は現在日蓮宗の「宗歌」として、宗門の公式行事等の場合には斉唱されているが、歌意は前文から考えても明らかなように、身延霊山の感慨がこめられているものといえる。
このように本書は巻頭と末尾に、身延山を霊山浄土であるとする考えをもって記されており、聖人の「身延霊山説」を最もよく表した御書として注目されている。
なお日通の『祖書証議論』によれば、本書の第五段以下の文、像の造立や精舎の建立から「是より広宣流布の第一精舎建立を勧め給うなり」とし、本書を「遺言の書」であると述べている。
また行学日朝の『身延山御書見聞』によると、本書は四条氏へ宛て書かれた御書であるとしているが、実を徴することはできない。
古写本としては日意本の他に平賀本、大野本がある。
本書の後には『波木井殿御報』と『波木井殿御書』の二書があるが、前者は日興の代筆であり、後者は真蹟もなく偽作説が強い。
前者には「いづくにて死に候とも、をばみのぶさわにせさせ候べく候」(定一九二四頁)とあり、後者にもほぼ同様の文が記されている。
共に遺言状として残されたものといえるが、本書と関連させて見ることにより、聖人身延霊山思想は一層明らかなものとなるであろう。
聖人にすれば身延山をもって、わがにおける法華経の根本霊場であるとし、自身のどころに定められたものといえる。
啓蒙』の中では行学日朝の一書を引いて、本書に種々検討を加えている通り、内容的にみて全く疑念がないわけではないが、しかし以上の諸点から推して、聖人身延霊山説を知る上では、極めて重要な一書であるといえる。
《『録内啓蒙』二七-九五、『日蓮聖人御遺文講義』一〇巻、鈴木一成「身延山御書系年考」『大崎学報』一一〇号
遺文辞典』歴史篇「身延山御書」の項

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