日奥(仏性院)
日奥(仏性院)
にちおう
(一五六五-一六三〇)
永禄八年六月八日京都町衆、呉服商辻藤兵衛の子として生れ、天正二年(一五七四)七月九日、京都妙覚寺一八世実成院日典のもとに投じ出家した。
時に一〇歳、字を教英、初め安国坊日甄(につせん)と名づけられのち安国院、仏性院と号し日奥と改めた。
日典その器を愛し教導至らざることなく、日奥また孜々として勉学し、かくて文禄元年(一五九二)先輩であった教蔵院日生、星陽日紹、老僧たる常光院日諦をこえて妙覚寺一九世の譲りをうけた。
時に二八歳である。
文禄四年九月豊臣秀吉は京都東山方広寺を建立し、六親九族菩提のために千僧供養会を営むことになり日蓮宗に対し一〇〇人の出仕を招請した。
この供養会に出席することは日蓮宗が古来より堅守しきたった不受不施の宗制に違うことになるので、諸山の長老、住持はこれに応ずるや否やを議したのであるが、国主の布施は格別で他と同等にすべきでない。もし秀吉の命を拒んで出仕せぬときは後難の恐れ憂うべきものがあろうという、いわゆる受不施義にたつ長老の一如院日重の言により貴命に応じて出仕しようとする本法寺日通、立本寺日抽、頂妙寺日暁を始めとする諸山の住持たちの賛同に大勢は供養会出仕に傾いた。
このとき日奥一人これに反対し、あくまで不受不施を厳守し供養を受くべきでないと主張し、これに妙顕寺日紹、本国寺求法院檀林化主日乾、本国寺日禛が賛意を表したが、会議の結末は出仕と決定した。
しかるに日紹・日乾は日重等の懇請、説諭によってついに出仕を表明し、日奥・日禛は大寺の地位名誉をすてて出寺し、日禛は嵯峨小倉山に日奥は丹波(京都府)小泉に隠棲した。
日奥は妙覚寺を退出するに際し『法華宗諫状』一巻を作って奉行前田玄以を通じて秀吉に献じ、文禄五年『法華宗奏上』を撰し、日蓮聖人の『立正安国論』『由来記』を副申して後陽成帝にたてまつり、同年天皇病に臥され病悩日々に重きを聞いて『除病延命表』をたてまつり「若し法華御帰依の龍光これ新ならば感応安んぞ唐捐ならん(略)しばらくもこの良薬をたもつ人、いかでか身心の重病を治せざらんや」と法華御帰依を献言し、あわせて病悩平癒を祈念したのであった。
小泉に蟄居すること六年、その間、慶長三年(一五九八)八月秀吉没し、家康かわって政務を見、天下の実権は家康のもとに集まった。
このころ日重・日乾はじめ諸師は、まだ続いている千僧供養会に日奥・日禛のみが参加せず、これを京都の宗門の僧俗はじめ他宗の人々も日奥の態度をほめて日重・日乾らの寛容・摂受の姿勢を責めたので日重らはこれに耐ええず、ついに日奥はいまだ貴命に応ぜず出仕せざるは公儀を恐れざるものであると家康に訴えたのである。
かくて家康は日乾・日紹らと日奥・日禛を大坂城によんで供養会出仕の当非を対論させることとなった。
慶長四年一一月二〇日、両者は相対したが、日奥はあくまで謗施不受を主張したので、家康は一度だけ出仕をすればあとの出仕を免ずる折紙を出そうとまで譲歩し、並居る諸大名もそれぞれに慰撫し台命に背かざらんことを勧めた。
日禛はこれによって大義名分は立つものとして出仕を約したが、日奥は断固として所信をひるがえそうとしない。
さすがの家康も激怒し天下の実権者たる自分の命を拒むは公命に背く大罪人であると流罪をいい渡し、翌慶長五年六月対馬に配流したのである。
在島一三年、その間、常楽院日経の慶長宗論(慶長一三年)に関し家康よりの下問に対し『三箇条尊答』を献じて法華宗の実義をのべ、また浄土宗実慧の『摧邪興正集』に対して『断悪生善』三巻を著してこれを破し、もと本宗の徒にして禅宗に転じた興正寺円耳が一書を作って日蓮宗を非義したのに対し『円珠真偽決』二巻を作って謬義を破折し、また『諫暁神明記』を述作して大いに宗義を顕揚した。
慶長一七生正月赦免されて京都に帰り妙覚寺に還住することを許されたが、満山大衆の改悔を求めて入寺しなかった。
所司代板倉伊賀守勝重はこれを憂えて諸山並びに妙覚寺寺家との間に立って斡旋、元和二年(一六一六)三月二五日、まず妙覚寺満山大衆の日奥への改悔があって帰山し、五月一九日妙顕寺日紹が諸山を代表して改悔し、日重・日乾らもこれに応じて互いに法理通用の一札を取りかわし、かくて同五月二七日諸寺は妙顕寺に会合し和融の義全く整ったのである。
家康は日奥の宗制堅持に対する不抜の信念を嘉し、内心には不受不施公許をゆるしていたようであるが、この年元和二年四月一七日、七五歳をもって没したのでこのことに及ばなかった。
勝重はすでにその内意を得ていたので好機を見はからっていたが元和九年一〇月一三日不受不施公許の折紙を出し、かくして日蓮宗は再び古制の伝統的不受不施制を守るようになった。
さて元和二年、日奥は妙覚寺に入るや、紀州家の重臣、三浦為春の需めに応じ『法華宗諸門流禁断謗施条目』と名づける諸門流の法式並びに旧記の抄物を撰して与えたが、これが身延隠居日乾の目にとまった。
日乾は弟子智見院日暹に命じてこの会通書を作って為春に与え、更にこれを諸方に配布した。世に『破奥記』という。
日奥はこれを見て『宗義制法論』『禁断謗施論』『門流清濁決義抄』を著して破斥し京都における諸門和融の道の背後に早くも両派対立の動きがかもし出されていた。
元和五年六月、長遠院日樹は池上一六世に晋んだが、このころ中山法華経寺・平賀本土寺・小湊誕生寺・碑文谷法華寺・中村檀林・小西檀林を中心とする関東諸山は強義折伏、不受不施の立場にたち日樹を盟主として日奥に同調し、近来関東に勢力をのばし始めた身延山を拠点とする受不施義の関西学派の進出を拒もうとしている時で、国主の施の受・不受をめぐり対立がようやく激しくなった。
寛永七年(一六三〇)二月二一日、幕府は両者を対論させ、政治的配慮によって関東諸山を敗論とし四日二日付をもって日樹他七名を流罪追放した。
これが身池対論で、日奥は再犯の故をもって対馬流罪をいい渡されたが、三月一〇日六六歳をもって入寂していたので世に「死後の流罪」という。
これより三五年ののち寛文五年(一六六五)六年にわたって不受不施義は禁制され、真俗は地下にひそんで不受不施派を組織し、幕府の不断の弾圧を蒙むりながら法命をつぎ徳川時代をおくったのである。
同派では日奥を不受不施派中興開祖と仰ぎ「中祖上人」と崇敬している。
日奥の著作に上記のほか『守護正義論』『唱題勧発抄』その他、及び配処にあって御書を心読し時々に感懐を記した録内、録外の手沢本がある。
《『万代亀鏡録』、宮崎英修『不受不施派の源流と展開』、同『日蓮宗の人びと』、『日蓮辞典』『日本仏教人名辞典』『国史大辞典』一一巻「日奥」の項》
(宮崎英修)