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日向(佐渡阿闍梨・民部阿闍梨)

にこう #2510

日向(佐渡阿闍梨・民部阿闍梨)

にこう

(一二五三-一三一四)
六老僧の一人。
佐渡公・佐渡房また佐渡阿闍梨・民部阿闍梨という。
ただし六老僧の中で日向・日頂の二人は日蓮聖人の生前中は阿闍梨号をもっていなかった。
日向は上総藻原(現在の千葉県茂原市)の生まれで、その出自については古来より諸説がある。
本化別頭仏祖統紀』によると、俗姓は小林氏。
父の民部実信は藤原氏の出身で北面衣冠の武士であった。
元久元年(一二〇四)実信は日蓮聖人の父重忠と共に伊勢平氏に与して破れ、上総藻原郷にながされた。
日向は建長五年二月一六日そこで生れ、幼少より僧儀を慕い、遊ぶには布を結んで袈裟となし、貝を貫いて念珠となし、合掌しては三宝の名を称えた。
父の実信はこれを厭って僅か五歳で元服させ、名を藤三郎実長と呼んだ。
しかし一〇歳の重い病に罹り、薬石の効なく、そこで父母は安房の千光山に虚空蔵菩薩を祈り、もし助かったならば出家させようと誓ったところ、たちどころに治ってしまった。
そこで比叡山高乗院に投じたが、文永元年(一二六四)日蓮聖人が安房に帰って母を見舞った折、実信は聖人の父重忠と友人である縁によって聖人と師資の契を結び、翌年使を遣わして日向を召し返し、聖人の下に投じたという。
に日向は一三歳であった。

日向は聖人に常随給仕して行学に励み、論義第一といわれた。
聖人佐渡流罪中もこれに随って佐渡に至り、給仕の誠をつくしたと伝えられる。
佐渡流罪赦免後、身延に隠栖した日蓮聖人は、やがて弟子の育成と檀越の指導に力を傾注していったのであるが、そこで遠方に居住する檀越と聖人とのあいだをつなぐ役割を果したのが、聖人から檀越へ、檀越から聖人へとどけられる書状であった。
そしてこのような書状を運び、両者の連絡にあたったのが日向らの弟子である。
日向は聖人の書状の中で「さど房」(定八二九頁・一一九一頁)「さど殿」(定一一三六頁)「佐渡公」(定一一六一頁)と呼ばれているが、その書状によって示される聖人の教えを遠隔地にいる檀越に伝えたりしながら、地方在住の人々を指導する任にあたった。
たとえば安房津の弥四郎の母が、その子弥四郎の訃報を身延に伝えるや、聖人は直ちに書状をもって弥四郎の死を悼むと共に、彼女に教えを説き、その末尾に「あはれあはれけさんに入ってくわしく申し候はばや。又、これよりそれへわたり候三位房佐渡公等に、たびごとにこのふみ(文)をよませてきこしめすべし」(定一一六一頁)と述べた。
三位房佐渡公日向らはこの書状を弥四郎の母のもとに届けると共に、彼女に聖人の心境や書状に記された諭を説明・敷衍する役割をもになっていたのである。
建治二年(一二七六)のこと、日蓮聖人の師であった道善房清澄で亡くなった。
聖人はその報をうけ、直ちにこれに赴き、師の恩を謝し墓前に回向せんものと考えたが、遁世の身であってみればそれもかなわず、筆を執って一書をしたため師恩の報謝に擬した。これが『報恩抄』である。
この使者として『報恩抄』を携え清澄に赴き前に供えて読誦したのが日向であるといわれている。

聖人は示寂に先だつ一〇月八日、本弟子六人を定めた。
のちに六老僧と呼ばれる人々で、日向もその一人であった。
聖人滅後、身延の御廟はこの本弟子六人を中心に輪番制で守護されることに決まったが、やがてその輪番制維持の困難なところから弘安八年(一二八五)の末ごろより日興が南部実長及び日昭・日朗の同意を得て身延に常住するようになった。
斎藤氏の外護のもとに藻原法華堂(妙光寺、今の藻原寺)を根拠地として上総一帯の教化にあたっていた日向もほどなく身延に登山し、その経営にあたるようになった。
二人の役割を見ると、日興は院主、日向は学頭として任務に就いている。
しかし両者の相反する格は、実長の指導方法に端を発して対立することとなり、実長は温和寛厚な日向に親昵して純信一徹・厳格な日興から離れていった。
弘安一一年もなかばをすぎたと考えられる頃、実長は三島明神に参詣せんとした。
常々この神無しと指導していた日興は、実長のくわだてを聞いて越後房日弁を使いとしてこれを止めさせようとした。
そこで実長はその当否を日向に聞いたところ日向は「守護の神此の国を去ると申すことは安国論にあるが、白蓮阿闍梨は外典読みに片方を読みで至極を知らざる者である。法華の持者が参詣すれば彼の諸神も社壇に来会すべく、尤も参詣すべし」と答えた。
日興は捨面を強調して擁護面を無視し、日向は捨のことは勿論であるが、擁護面のあることを忘れてはならぬという。
ここに日興・日向二人の峻厳と寛容の化導の相違が見られる。
かくて実長は寛容な日向に帰依し、日興は正応元年(一二八八)一二月、日向・実長と訣別して身延山を離れ、日向が身延と藻原を兼ねて、その経営・化にあたることになった。
日向は身延に住し、藻原妙光寺を丹波公日秀に付してその地の化をゆだねた。
実長が永仁五年(一二九七)九月に没したあとは六郎次郎実継、原長義らの兄弟ならびに一族の外護を得て身延山の基礎を固め、身延に有ること二六年、正和二年(一三一三)後事を弟子三位房日進に托して退隠し、藻原に余生を送り、翌三年九月三日六二歳をもって寂した。身延ではこの日を記念して長く三日講を営んできた。
著書に『金綱集』がある。
この書は日向が日蓮聖人より聴聞し、また自身の見聞するところに従って諸宗破立の大綱を記述し、広く経論疏釈の金言を援引して、これを華厳宗見聞・小乗三宗見聞等と名づけ、総括して『金綱集』と題したもので、古来より身延門流の秘書として重んぜられた。
写本には身延三世日進・同四世日善・中山三世日祐その弟子日全らの多くの人の手になるものがある。
日祐の『本尊聖教録』には「金綱集十帖」「金綱集抄十帖」と記され、藻原妙光寺四世日海の『初心行者位抄』には「日向御書十帖」と記されている。
現今の『金綱集』は一四帖となっているが、これは調巻の異なりと同に他の書目が加わったからと考えられている。
この他に目との間に七重本迹の相違を論じたと伝えられ、日蓮聖人の一代記『高祖一期行状日記』もあったとするが今に伝わらない。
《『遺文辞典』歴史篇「日向(にこう)」の項、『日蓮辞典』「日向」の項、『昭和新修』別巻「佐土公日向」の項、『日蓮聖人大事典』「日蓮聖人六老僧」の項、『日本仏教人名辞典』「日向」の項、『史大辞典』一一巻「日向」の項》
(林是晋)

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