日意(妙高院・平賀本土寺)
日意(妙高院・平賀本土寺)
にちい
(一四二一-七三)
平賀本土寺九世。
日意の弟子妙泉院日晴の『平賀本土寺継図次第』にその伝を載せる。
下総国八幡(やわた)庄市河の足立(あだち)氏の出身。
僅か二歳にして本土寺に入る。
字(あざな)を宗鏡、禅司阿闍梨林泉坊と称し、妙高院と号す。
少年のころから武蔵の仙波(せんば)檀林に学び、一七歳にして同檀林の祭礼(日吉山王社の祭礼か)の講師となって名を挙げたという。
このとき、のちの身延の行学院日朝も同門であった。
のち比叡山に登り、東塔西谷覚林坊に在住、三年にわたり天台教学を研鑽した。
このときは定栄と名乗ったという。
更に足利(あしかが)学校にも学んだ。
その後、処々に弘通し、禅僧と問答してこれを論破し、文安四年(一四四七)には、江戸で浄土宗の僧と法論して論破したという。
佐渡に赴き聖人霊跡を訪ね、同五年、本土寺八世日福の譲りをうけて同寺住持に就任した。
宝徳四年(一四四九)、たまたま寺内に出火があり、堂舎が焼けるや、住持の責任を感じてか自ら宝蔵に入って焼け死のうとしたが、寺僧秀源阿闍梨日能が宝蔵を破り、日意を引き出した。
檀越曽谷直満の所領、金杉の阿弥陀堂を引き移して仮の堂とする一方、日意は堂舎再建の勧進(かんじん)を上総伊北(いほ)の地で行い、門徒の支援により享徳三年(一四五四)には造営を完成、入仏している。
同寺御影(みえい)像造立も日意の時のことである。
更に日意は、古河公方(こがくぼう)足利成氏(しげうじ)に三度にわたり目安を捧げ、諫暁を行い、三度目の折には成氏の前で問答している。
日意の弘通に応じて、上総小西の原肥前入道行朝の一族が悉く入信、行朝は小西に正法寺を建立、日意を開山とした。
更に小弓(生実(おゆみ))の原左衛門尉法名朗珍も教化され、文明三年(一四七一)、下総国臼井庄弥富(いやとみ)に長福寺を建立して日意に寄せている。
日意が造営した最初の寺院は上総高師(たかし)の実相寺で(長禄二年=一四五八=開創と伝える)その後、正法寺、長福寺、真浄寺、法宣寺その他、上総・下総に末寺九ヵ所を開創、弥富・市東・沢・岩部・玉造・勝田の諸氏を檀那として、平賀門徒を増大させていった。
文明四年、日意は長福寺において駿河国海上寺の僧弁公日円・京都立本寺民部卿日慈を始め門下の僧のために『観心本尊抄』を講じている。
この講談を記したのが『観心本尊抄見聞』である。
更に平賀門流の本尊に関する口伝(くでん)を談じ、これを日経が『御本尊口伝面授私(し)』として記した(『本尊論資科』第二編所収)。
『観心本尊抄』を講じたように、日意は遺文の研鑽に努める一方、テキストとしての遺文の蒐集にも力を注いだらしく、大永八年(一五二八)本土寺日遊発願の平賀本録内御書の識語には、小西正法寺に録内が蒐集されていたことが記され(「忘持経事」識語)、平賀門流の岩部安興寺にも録内御書のあったことは、本土寺日悟が右の大永八年書写本を「以岩部本文字并点等一々校之」したことによっても知られる(「三世諸仏総勘文教相配立」識語)。
のみならず同写本の「四信五品鈔」「木絵二像開眼之事」「月水鈔」「三沢鈔」「妙法曼荼羅供養事」「下山抄」「法蓮抄」「聖密房御鈔」「兄弟抄」「諫暁八幡抄」「頼基陳状」「上野殿御返事」「異体同心事」等には「日意云」とある識語が写されているし、「妙法曼茶羅供養事」の末にある「自弘安五年(一二八二)至嘉吉三年(一四四三)百六十七年相当候也」の識語(「百六十七年相当」の七は一の誤植で『定本』の校正ミスであろう)も、恐らく日意の所記の写しと思われるもので、日意は本土寺住持就任以前から、録内御書の蒐集・書写に当っていたと考えられるのであって、この日意蒐集・書写の録内御書が、平賀本録内御書の底本であったとしてよく、遺文編集史上、日意の名を逸すことはできないのである。
文明五年、日意は弥富長福寺において遷化した。
五三歳。
《立正大学日蓮教学研究所編『日蓮教団全史上』、『遺文辞典』歴史篇「日意」の項(二)・同「平賀本」の項、『日本仏教人名辞典』「日意」の項、宮崎英修『日蓮宗徒群像』》