信と行
信と行
しんとぎょう
信心と修行のこと。
一般に信心とは仏や経典に説くところの教えを信じて疑わない心をいう。
修行とは教えを身に持って修め習い実践することで、悟りを求める心を発し、その目的を達成するための行為・実践をいう。
この信と行は不離の関係にある。
信を離れての行は無意味であり、また信は信仰実践の場において、行法において支えられなければならない。
つまり信とは実践・行という緊張においてたもたれなければならないのである。
信の具体的表現が行であり、行は信を実践することである。
日蓮教学では殊に信が中心となって受持唱題を正行とする(信心正因・受持正行)。
日蓮聖人は、法滅尽時という末法において仏法を受領するには、釈尊の随自意の経である法華経を信じ、それを素直にいただくこと以外にあり得ないと断定する。
しかし「智目行足(智恵の目と修行の足)」の語が示すように、一面、仏教において行は智恵(学)との関係において理解されていることも事実である。
日蓮聖人は『諸法実相鈔』の中で「行学の二道をはげみ候べし。
行学たへなば仏法はあるべからず」(定七二九頁)と述べられて、行学の二道に励む事を勧奨されている。
即ち、行とは智解に導かれて悟りに到達せしめるところの実践行為とされている。
行は仏教教理によって説示されるものであり、教理に基づいてなされる行為であるから、その教理の智的理解が必要とされるであろう。
つまり、それは盲目的行であれば意味をなさないからである。
そこに教観相資がいわれてくる。
天台における行の中心は一心三観の観法で、一念三千を対境として十境十乗の観法を修し、その過程に六即・五十二位の位次階程が設けられている。
ところが日蓮聖人は信を中心として、一念三千の論理に基づく受持唱題を正行とされて、観念観法の行を智者の行解として否定されている。
聖人の宗教が信心為本に立たれている事は『法華題目鈔』に「夫れ仏道に入る根本は信をもて本となす。
五十二位の中には十信を本とす。
十信の位には信心初也」(定三九二頁)と述べられて、信心を強調されていることによって窺え、それは遺文の随所に見られる。
前の『諸法実相鈔』の文は「信心つよく候て」に続き、次下に「行学は信心よりおこるべく候」と続いている。
大乗仏教における行は智と関係するところであるが、それは仏教教理に絶対的真理があるという信に基づくものである。
法華経譬喩品には「信を以って(仏道に)入ることを得る」と説示されている。
その信に基づいて教理理解があり、それに基づいて行という実践行為があるのである。
そこに信が最優先される理由がある。
そして信心・智解・修行という構造において、日蓮聖人は『四信五品鈔』に「以信代慧(いしんだいえ)(信を以って慧に代う)」(定一二九六頁)と述べられている。
仏教における得証のための基本的修行である三学、即ち戒・定・慧を修することについて、日蓮聖人は戒・定は慧に集約されるとして慧の一分に限るとし、末代の凡夫はその慧にも堪えないから、信の集中によって智慧の修得に代えよとされているのである。
更に「信の一字を詮と為す。
不信は一闡提謗法の因、信は慧の因、名字即の位也」(定一二九六頁)と述べられている。
これは、末法において法華経を修行する行者のあり方が六即の中の名字即の在り方によってのみ行ずることができるという認識によって、末代法華の行者を名字即と規定することに基づいている。
そして法華経こそが末代に与えられた要法であることを明らかにし、その法華経を信じ題目を唱えることは、「小兒乳を含むに其味を知らずとも自然に身を益す」(定一二九八頁)ことと同じであるというのである。
このように日蓮聖人は信を最重視し、それに基づいて日蓮聖人の行動があり、門弟・檀越への行の説示がなされている。
その具体的行動・行はまず第一に法華経説示の如説修行である。
これは具体的には受持・読・誦・解説・書写の五種妙行を指すが、聖人は特に受持を重視し、法華不信の謗法の者に対して折伏の色読をすることが如説修行であるとする。
『事理供養御書』に「南無と申すは(略)帰命と申す。
帰命と申すは我が命を仏に奉ると申す事也」(定一二六二頁)と述べ、例え身命に及ぶことがあっても捨身弘法することが法華経への信心を貫徹させることであるという。
そして『撰時抄』に「されば我弟子等心みに法華経のごとく身命もをしまず修行して、此度仏法を心みよ」(定一〇五九頁)と門弟にも強く要求し、『可延定業御書』に「心みに法華経の信心を立て御らんあるべし」(定八六二頁)と檀越にも要求している。
言うまでもなく、日蓮聖人は題目の受持を正行とされている。
天台の像法における観心の修行は法門が高く且つ広いため極めることが困難であって、末学はその機根ではないという認識のもとに観念観法の行を否定し、題目の受持こそが末代に与えられた行法であることを明らかにされている。
題目受持の論理構造は一念三千に基づいているが、その一念三千は超越具の三千として内在的に理成される一念三千であって、その一念三千は凡位にとって理法・法体として受持されるのであって思惟分別による把握は困難であり、その得証は絶対的帰投を意味する信によってのみしかあり得ないとされている。
こうして聖人は題目への絶対的帰命(信)を要求するのであって、それこそが行なのである。
一念の信による題目の受持こそが聖人の示された行であって、行と信は表裏一体をなすのである。
そして、内向的な題目の受持と外向的な如説修行とは一体化するものである。
ところで、日蓮聖人滅後には、このような信心中心の信行構造は、やがて行を支える行法を問題とする構造へと変化していった。
鎌倉・室町期には、行を通しての信の持続は、門弟たちに如説修行の継承として表れ、特に申状と国家諫暁がなされた。
その主なものだけでも、日昭・日朗を始めとして約四〇例を数える。
中でも殊に久遠成日親・仏性日奥らの弘教は、よく宗門における信と行の実践面を代表するものである。
《『遺文辞典』教学篇「信」「行」「信行」の項》