聖教殿(中山法華経寺)
聖教殿(中山法華経寺)
しょうぎょうでん
千葉県市川市中山の法華経寺にあり、日蓮聖人の遺文(著述・消息)、本尊その他を格護するための庫蔵。
聖教護持財団によって造営が行われ、昭和六年(一九三一)五月三日に完成し、以降、それまで法華経寺内の宝蔵に収蔵されていたものを保存する。
所蔵の真蹟遺文は『観心本尊抄』(国宝)、『立正安国論』(国宝)始め重要なものが多く、かつ所蔵量も多く、現存する真蹟遺文の大部分を占めている。
法華経寺は、もともと法華寺と本妙寺と二寺からなり、天文一四年(一五四五)に両寺が合併されて法華経寺の寺号を公称したのであるが、古来、法華経寺が宗門の法蔵といわれるわけは、その開創期において、遺文の蒐集が行われ、その格護が一門の宗制として代々継がれてきたからである。
聖人の大檀越であった富木常忍は、聖人の滅後、出家して常修院日常と称し、八幡庄若宮の邸内に建立した法華堂を改めて法華寺とし、自ら初代となって門流の基礎を築いたが、ことに遺文の蒐集に力を注ぎ、臨終には遺文を中心とした蒐集目録『常修院本尊聖教事』を作成し、『置文』を制定して、その格護を後代に厳命した。
日常の厳命は、法華寺の二世で、かつ八幡庄中山の館内にあった父大田乗明の持仏堂を改めて本妙寺とした日高(乘明の子)に受継がれ、更に日高の後を受けて法華・本妙両寺を兼帯した日祐に受継がれた。
このあいだにも蒐集は行われたので、日祐はあらたな目録『本尊聖教録』を作って後代に散逸のなきよう図ったが、この間に行われた蒐集と格護とは、いわゆる「常高祐三代の掟」として門流の規矩となり、爾来、これを厳守することが一門における最も重要なこととされてきた。
ところが大正一一年(一九二二)、法華経寺から遺文が紛失するという重大事件が起った。
同年一〇月二九日、清水龍山の率いる御遺文信解会の申し出によって宝蔵が開かれるに及んで、この事件は暴露された。
その頃、清水龍山は信解会で『開目抄』を講了し『観心本尊抄』の講義を開始していたので、『本尊抄』と共にその『副状』の拝観を特に申し出たはずである。
紛失した遺文は二通『大黒天供養事』とその『副状』とであった。
幸い紛失した遺文は、その後半年あまりを経た一二年六月二五日に在りかがわかって事件は落着したが、遺文が発見されてもなおこの事件は宗門内外の人々を悩ませ、心ある人々を憂えさせずにはおかなかった。
真蹟の保管に粗略の点の多いことがわかり、今後においてもこのような不祥事が起り得ることがわかったからである。
ところで、法華経寺格護の真蹟の紛失はこれより以前、明治三二年、五月七日盗難によって真筆曼荼羅本尊一一幅を含む全一四点を失っていた。
さらにさかのぼれば、常・高・祐三師による聖教厳護の規範は十世日俒、十一世日典の師弟によって破られていた。
真蹟遺文の大量の寺外への流出である。
その多くは消滅し、少分は他寺に現存している。
法華経寺住持の上方三ヵ寺による輪番制度の発足は、宝物流出という深刻な事態打開のための体制整備にもとづくものであったことは周知の史実である。
なお、聖教殿現存真蹟は初代輪番住持仏心院日珖が俒・典両師から堺で受け取った折の記録(目録)とおおむね合致するから、以後の流失は『内記左近入道殿御返事』の事例があるが微少であろう。
とまれ、『日常目録』『日祐目録』と現況を対比すれば瞭然たるものがある。
真蹟以外の写本遺文やその他の文献はほぼ悉皆流出して存せぬ事実、真蹟すら(殊に「尼公」を冠した富木氏夫人宛て状の多くが)流失し散逸した事実をおもえば、俒・典両師の不法行為はまことに遣る方ない次第である。
痛憤のこの思いは、時代は異るが、かの明治八年の身延山炎上による宝物悉皆焼失の無念の不始末に匹敵する。
両災厄は共に人災であった。
そこで真蹟の保管に万全を講ずべきを率先提唱し、その実現にいちはやく立ち上ったのが法学博士山田三良と同氏の率いる法華会であった。
聖教殿造営の提唱・発願である。
因みに、法華会は法華経の教義と日蓮聖人の主義主張を世に宣伝することを目的とし、法華経と日蓮聖人の教えを信奉する山田三良の提唱によって、大正三年五月に有志僧俗によって組織され、その目的を達成するための一途として、月刊雑誌『法華』を発刊する会である。
同会は早速その実現に乗出し、同一二年六月より法華経寺側と協議を重ね、七月に「中山宝蔵建築要綱」の成立をみた。
聖教殿造営への具体的第一歩である。
右の協議に基づき、ただちに資金の募集に着手しようとしたが、同年九月一日の関東大震災に遭い、ひとまず延期を余儀なくされた。
しかし一方、この大災害をまのあたりにしたことが、耐震・耐火をより一層研究させることとなった。
同年九月二三日に法華経寺に敷地検分が行われ、同一〇月二日に建築設計第一案が、更に同二一日に同第二案が考案され、一三年二月に会内に宝蔵建築資金募集事務所が設けられ募金が開始された。
日蓮宗も補助金下付を宗会にて可決し、管長はとくに諭達を発令してこの達成を促がした。
大正一五年八月、遺文の護持は永遠を目的とする。
従って、事業の組織も永遠に確固不動のものでなくてはならないが、それには、組織を永遠の持続を目的とする財団法人にすべき必要のあることが法華会で唱えられ、法華経寺側もこれに同意したので、法華経寺・日蓮宗・法華会の三者協議のもとに、三者による円満なる運営を約して聖教護持財団を設立し、山田三良が理事長となった。
一五年一〇月一三日の聖日を卜してのことであった。
こうして大正一五年一一月二一日に聖教殿は着工となり、爾来、年を経ること五ヵ年、およそ二一万円の工費を投じて、あたかも聖人六五〇遠忌の忌辰に当る昭和六年(一九三一)の四月に工成り、同二九日に旧来宝蔵に収蔵されていたものがことごとく移され、同五月三日に落慶の式典が挙げられた。
建築の様式は、東洋建築とくに社寺建築の第一人者工学博士伊藤忠太がインドの宝塔に範をとって設計し、鉄骨・鉄筋・石材からなる構造上の設計は西洋建築学の権威工学博士内田祥三が担当し、工事の請負人は清水組清水釘吉である。
内部に安置する厨子は尾州桧の柾材からなり、屋根は銅板ぶきで、金具は銅製金箔押、正面扉は楠製で四天王の彫刻は赤堀信平の作である。
厨子のなかの大箪笥と桐箱とは鷲塚清次郎の製作で、真蹟はこのなかに納められている。
また塔身軒回りの霊獣と正面階段手摺の獅子とは新海竹蔵の原形による石彫、庭園と参道は中島卯三郎の設計による。
耐震・耐火・耐湿そして防盗・防虫と、あらゆる災難に耐えられるような研究工夫がこらされ、しかも壮麗森厳さを備えており、宗教的荘厳と科学的堅牢とを兼ね備えた、聖人の真蹟を格護するにふさわしい庫蔵といえよう。
その後、屋上のコンクリートの一部に亀裂が生じ、かつ正面の鉄製大扉も錆のおそれがあるので、昭和三三年春、先を銅板ぶきに、後をブロンズ製に改めることが発願され、現在のように改造された。
毎年一一月三日の文化の日あるいはその付近の晴天日に、関係者立会いのもとに開扉され、格護の真蹟の点検と風入れが行われるのが、昨今の通例となっている。
なお、近時の法改正に伴って三者による財団運営方式が改められた。
《『法華会創立百周年紀要』、『図説日蓮聖人と法華の至宝』二巻「真蹟遺文」》
(雨宮通仁)