日智(通本院)
日智(通本院)
にっち
(一八一九-五四)
師は字は桓叡、初めは本智院と号し、のち通本院と改めた。
槐堂・愛嶽道人・湖殿閑人等はその別号である。
文政二年、駿河国原に生まれ、父は桓隨日鎭といい、境本院と号し、儒学者として一家を成した人であった。
桓隨日鎭は幼少の日智と共に玉沢四一世境修院日桓の門に投じ出家した。
三歳の時、日鎮が中村檀林に学んだので、玉沢にて養育せられたようである。
日鎭は後年、原の昌原寺に住した。
日智は一三-四歳の頃、中村檀林に学び、三昧堂檀林に転じ、のち再び中村檀林に学んだ。
天保九年(一八三八)、二〇歳にして玄義全部の業を卒え、いったん昌原寺に帰ったが、その後四年間は帰檀攻学し夏間(げあい)(檀林の休暇中)は昌原寺、あるいは玉沢にあって学解に専念した。
天保一三年、二四歳にして加賀に優陀那院日輝を訪ね、不審を提して学益を請うかたわら、日輝の授業を助けた。
翌年、法兄日能が玉沢に晋山したので、その摂扶のため充洽園を辞し、爾来、玉沢山内の覚林院に住し、本院の学生に授業し、また貫首に代って山務を督した。
弘化三年(一八四六)病ののため伊豆修善寺に静養した。
嘉永元年(一八四八)日輝を三昧堂檀林に尋ね、群疑を釋し、嘉永二年には南都紀州方面に遊び、帰途、京都岡崎の地に小庵を造り、藤樹庵と号してこれに隠れ、礼懺と修養と著述に励み、幕末の時代思潮と宗学とを厳しく対比し、思索に耽ったようである。
嘉永三年、檀越の請に応じて中村檀林に近い北場の浄妙寺に赴き、同寺を董しつつ、中村檀林に居住することもあった。
安政元年(一八五四)春、病を再発して玉沢に帰り、熱海に静養し、三月には更に昌原寺に移ったが、同月二九日、病革まって同寺に寂した。
世寿三六歳であった。
師の著述は宗学一般については『妙宗綱要』『妙宗釋疑』『本宗名相弁』等、本尊論については『本門本尊論』『本門本尊記』等、事観論については『事観決』『事観要解』等、行法論については『摂折謗正』『一念信解抄』祖書の註釋には『安国論玄義分』『開目抄撮要』等、儒教批判については『護法知時論』『密室閑話』等がある。
日智は本宗の四教判を建て、約教判においては、迹権本実を主張したが、しかし権実判の正意は約部判の今昔相対にあるとした。
本迹判において勝劣は台当本迹、像末相対の教判で、今家の相対判であり、一致は本宗の宗趣・自行の方軌を示す教判で、今家の絶対判であると論じ、本尊論においては『総勘文鈔』の思想によって、汎神論的法界一仏を主張し、本尊の実体を三千世間の法界そのものに求めたが、行門においては、これを自己の己身に摂帰し、自己の五大・五陰をもって究竟の本体としたのである。
しかして日智は釈尊・妙法・己身の三者の本尊義の関係については、名・相・体の三義に分別して会通している。
即ち釈尊を本尊というのは本尊の名義に従ったものであり、題目を本尊というのはその形相について論じたものであり、行者を本尊というのはその実体について定めたものであるというのである。
また本尊の人法については釈尊を人とし、妙法を法とし、己身を人法不二とする。
寿量能顕の釈尊を本尊とするのは権門の弥陀・大日等を破折せんがためであって、当家本尊の実義たる本門寿量の教主釈尊とはかかる教門の仏を指すのではなく、行者一身の当体に名づけたものであるというのである。
かくて日智は『開目抄』の人本尊・『本尊問答抄』の法本尊は共に客観的教相の本尊であって、それは『本尊抄』『当体義抄』等における主観当体の本尊ではなく、所被の機に従って説かれた隨他門であるとみなしている。
木・画二像の本尊については大曼荼羅は下種の本尊、一尊四士は脱益本尊であって、下種を得た人は脱益を成ぜんため、従因至果の修行を励むべき故、両者併立すべきであると述べ、またこの種脱本尊義は一面においては順逆の二種本尊義であって、下種は逆縁、脱益は順縁であるから、大曼荼羅は逆縁本尊、一尊四士は順縁本尊であると説いている。
戒壇論については法華経の道場すべてこれ戒壇であると主張している。
次に事観論は日輝の事体理用説と意見を異にし、四明の学説に根據して、理体事用論を強調しているのである。
なお、優陀那日輝の『庚戌雑答』は『立正安国論』無用論を述べるなど名高いが、それは日智の問いに答えたものである。
《小笠原毅堂「玉澤桓睿師」『大崎学報』一二号、望月歓厚『日蓮宗学説史』、執行海秀『日蓮宗教学史』、『日本仏教人名辞典』「日智」の項》