延暦寺(滋賀県大津市)
延暦寺(滋賀県大津市)
えんりゃくじ
大津市坂本本町に所在する天台宗総本山、山号は比叡山。
平安時代以降の山岳仏教がその堂塔を創めたところは、本来多くは仏教以前の民族固有の信仰によって崇められてきた霊山聖地であった。
比叡山もまた大山咋神、日吉神社の神体山として民族信仰を伝えてきた霊山であった。
最澄(七六七-八二二)は延暦四年(七八五)この山上に草庵を結び、一乗止観院と名づけたが、一般には比叡山寺と呼ばれていた。
その後、最澄が唐より天台宗を伝え、この地を法華経を所依の根本とした円密禅戒の四教合一の道場と定め、同時に大乗円頓の戒壇を設置せんとした。
こうして奈良仏教諸教団からの独立を計ったが、それはまた律令国家に従属せしめられていた教権の国家権力からの解放をも意味していた。
しかし、この大乗戒壇の設置は弘仁一三年(八二二)最澄の没後七日めにしてようやく勅許され、次いで翌一四年に嵯峨天皇より延暦寺の寺号を賜った。
最澄は『金光明最勝王経』に依拠した在来の国分寺設置の理想に対応して全国に六カ所の宝塔院を創設し、それぞれに一〇〇〇部の法華経を納め、法華経による仏国土建設の理想顕現に努めた。
ことに中原安鎮と、これら五ヵ所の宝塔院を統べる国中安鎮の宝塔院を比叡山上に設けたが、前者が西塔法華宝幢院、後者が東塔一乗止観院で、ことに東塔は根本中堂の所在する所として永く一山の中心地となった。
これに加え、叡山に台密の基礎を築き、また常行念仏を将来した第三世座主円仁は横川に首楞厳院を創め、ここに叡山三塔が出来上った。
一〇世紀にいたり、第一八世座主良源の時に堂塔伽藍の規模がほぼ完成し、こうして後に一山を分けて三塔、一六谷、二別所と呼ばれるようになった。
第四世座主円珍は別院として園城寺を開き、叡山を山門というに対し、これを寺門と称した。
ことに良源の治山の頃より円仁・円珍両門徒の確執が激しくなり、永承三年(九三三)円珍門徒は園城寺に移り、ここに山門・寺門の対立は決定的となり、しばしば武力抗争に及んだ。
また両者とも僧兵を養い京都・奈良の諸社寺とも争い、朝廷を悩ませた。
ことに鎌倉時代から戦国時代にかけて武家の抗争に介在して大いに武威をふるったが、元亀二年(一五七一)織田信長の焼打ちによって一山焼亡した。
しかし、豊臣秀吉や徳川家康・家光らによって再興され、ほぼ旧観に復した。
叡山はまたかつてわが国における仏教研鑽・実修の一大道場であり、多くの栄匠を輩出し、日本仏教の形成に寄与すること多大であった。
ことに鎌倉新仏教諸教団の開祖である法然・栄西・親鸞・道元らもここで学び、それぞれ独自の宗教思想を発展させ、また時宗の一遍も叡山に登詣している。
日蓮聖人も同様に叡山に登ったが、横川の定光院がその修学の遺跡に当ると伝えられている。
いわば、叡山はこれら新仏教成立の母胎の役割を果したともいうべきである。
聖人は台密系の寺院であった清澄寺で、念仏者である道善坊の下で、その宗教生活の第一歩を踏出した。
それだけに叡山仏教に期待するところも大であり、当時の叡山仏教において次第に成長発展をとげてきた浄土教思想を排しながらも、叡山根本中堂炎上の報に「為山門繁昌起如是留難歟」(『御輿振御書』定四三八頁)と述べ、また円仁・円珍以来まったく密教に傾斜した叡山仏教の情況を批判し、密教排撃を展開したのちも「佛法の滅不滅は叡山にあるべし。
叡山の佛法滅せるかのゆえに異国我朝をほろぼさんとす」(『法門可被申様之事』定四五三頁)と、密教におされた法華信仰を嘆じ、最澄の創めた天台法華宗の根本的精神に復することを求めて、自身最澄の真門人としての自覚を示している。
だが聖人の強烈な法華一乗思想は、法華経を所依の根本経典としながらも円密禅戒四教合一を標榜する最澄の思想を乗り超え、独自の宗教思想に発展した。
即ち『開目鈔』に「日本国に此法顕るること二度なり。伝教大師と日蓮となりとしれ」(定五八三頁)と述べながらも、一方では「日蓮法華経のゆへに度々ながされずば数々の二字いかんがせん。此の二字は天台伝教もいまだよみ給はず。況や余人をや」(定五六〇頁)と、その間の事情を示している。
こうした聖人の思想形成の過程に及ぼした叡山の役割については、看過できないものがあるといえよう。
《『遺文辞典』歴史篇「延暦寺」の項、『日蓮辞典』「比叡山」の項、『日蓮聖人大事典』「日蓮聖人と伝教大師・比叡山」の項、『岩波仏教辞典』「延暦寺」の項、『国史大辞典』二巻「延暦寺」・一一巻「比叡山」の項》