神国王御書(一六八)
神国王御書(一六八)
しんこくおうごしょ
一篇。
日蓮聖人著。
真蹟四四紙(但し二三上紙と本文末尾欠)、京都妙顕寺蔵(重要文化財)。
系年は『日諦目録』、『日明目録』は建治元年(一二七五)とし、『境妙庵目録』は建治元年二月とす。
文永一二年は四月から建治元年に改まったから『昭和定本』は文永一二年二月に系ける。
異説があり『対照録』上巻では弘安元年(一二七八)、あるいは建治三年八月とする。
題号は後人置題、第十六紙前半まで神国としての日本国体観が述べられるところからかく命名された。
また『行秘法鈔』『真言亡国鈔』とも異称される。
宛名は『境妙庵目録』に日興の舎兄上野彦太郎源時光なる人への賜書とあり、『日蓮宗年表』は建治元年二月の項に「南条時光に与ふ」とす。
一鈔の大綱、この書の中心問題は宗教と政治、法華経と日本国との関係である。
冒頭まず日本国名・領土を述べ、次に歴代天皇と仏法との関係を論じて、神世一二代、人王二九代までは仏法の伝来なく、三〇代欽明の御宇に仏法伝来、三四代推古の御宇に仏法は興隆して三論宗・成実宗渡り、三六代には禅宗、四〇代に法相宗、四四代には大日経、四五代に華厳宗、四六代には律宗と法相宗がわたる。
五〇代桓武天皇の御宇に最澄が入唐して四宗を将来したが、法華宗と大乗律宗とを弘めて、禅宗を弘めず、真言宗をば宗の名を削った。
ところが空海・円仁・円珍が出て真言宗を興隆し、法華宗を下した。
降って八一代安徳天皇は源頼朝に攻められて壇の浦に沈み、八二代後鳥羽・八三代土御門・八四代順徳の三天皇は北条義時に攻められて破れ、承久三年七月それぞれ隠岐・土佐・佐渡に流された。
ここに聖人疑う。
「我日本国は一閻浮提の内、月氏漢土にもすぐれ、八万の国にも超たる国ぞかし」(定八八二頁)。
外道一人もなく、家ごとに八宗十宗を習い、狭い国ながら月氏漢土より寺の数も多い。
それらの寺々が「天長地久玉体安穏」を祈り、その上、天照・八幡・山王等の三千余社ありて朝夕に「国家を見そなわし」「天王守護の大願」を抱く。
「仏の加護と申し、神の守護と申し、いかなれば彼の安徳と隠岐と阿波・佐渡等の王は相伝の所従等にせめられて」「国をうばわるるのみならず、命を海にすて、身を島々に入れ給けるやらむ」と。
その上、安徳天皇は明雲座主に勅して五壇の秘法を修し、承久の乱には座主慈円等に勅して十五壇の秘法を修して頼朝・義時の降伏を祈ったが、結果は朝廷側が破れた。
日蓮聖人はこの事を疑問に思い、随分に顕密二道を学んだ結果、仁王・金光明等の仏鏡によると、仏法によって国盛え、国亡ぶという。
「一代聖教の中に法華経は明鏡の中の神鏡なり」。
しかるに中国では善無畏等の三三蔵が印度から『大日経』等をもたらしたとき、天台宗に及ばないと知って妄語を案出し、意密においては法華・大日は理同なれど、印・真言において「法華経を打落して真言宗を立てて候」。
故に善無畏の臨終は無間地獄の様相を帯び、当代の玄宗皇帝は安禄山に亡ぼされた。
日本国では空海・円仁・円珍がこれを伝えて、暫くは法華宗内で諍論があったが、叡山五五代明雲以降は一向真言宗になり「教主釈尊・多宝仏・十方の諸仏の御怨敵」となった。
「いかでか此人を仰ぐ檀那をば守護し給べき」。
余は此事を知って以来、随分の弟子に申聞かせたが、次第に伝わって国主に聞え「結句は二度の遠流、一度の頸に及ぶ」。
この現罰は必ずある。
「悦哉、経文に任て五五百歳広宣流布をまつ。
悲哉、闘諍堅固の時に当て此国修羅道となるべし」。
それにしても法華経の行者に諸天の守護がないのはどういうわけか―以下欠―。
《『朝師御書見聞』(『宗全』一七巻)、『日蓮聖人御遺文講義』九、『遺文辞典』歴史篇「神国王御書」の項、『日蓮辞典』「神国王御書」の項》
【補記】岡元錬城「日蓮聖人書状『神国王御書』の研究―その系年と対告者について―」(『日蓮聖人遺文研究』第二巻所収)は(建治三年)八月二一日付『兵衛志殿御返事』の「神国の仏国となりし事もゑもんのたいう(右衛門大夫)殿の御文と引合せて心へさせ給へ」(定一三七一頁)との記述との関連、その他により、本書の系年を建治三年八月二一日、対告者を池上大夫志宗仲とする。妥当な見解であろう。