日有(大石寺)
日有(大石寺)
にちう
(一四〇九-八二)
俗姓は南条氏という。幼少にして大石寺八世日影に投じ勉学した。
『富士門家中抄』によれば、日影は応永二六年(一四一九)八月四日臨終にのぞみ、「血脈を伝ふべき機なき、これわが悲嘆なり」と在俗の人柚野浄蓮に血脈を付属し入寂したとしるしている。日有ときに一一歳、恐らく幼稚にしてその器に非ずと思われたものであろうか。
その後、長じて九世を継いだ。
永享四年(一四三二)上洛、奏問を企て、尼崎に日隆を尋ねて相会し『四帖抄』を贈られた。
更に越後、遠江に布教し、大石寺に帰り寺門の経営につくした。
このころ日有の模刻にかかる板本尊が二面現存しているが、大石寺のいわゆる宗祖御真筆と称する板本尊も日有の彫刻といわれている。
日有には宿痾があり、甲州下部で療養したがのち杉山に隠れ、文明一四年九月二九日、七四歳をもって入寂した。
日有には系統だった著書はないが、弟子たちに語ったことが聞書として伝承されている。
即ち『有師化儀抄』『日有上人御物語聴聞抄』『雑々聞書』等がそれである。
これら断片的に述べられた聞書によって、教学、行動をうかがうに、日有は興門上代の曼荼羅本尊から宗祖本仏論を展開し、一品二半脱益、八品下種をたて、聖人が諸御書に本門八品といわれるのも、題目五字といわれるのも同じことで即ち本因下種の妙法である。
一品二半の寿量品の極果の妙法は在世の機の所用にはなるが、末法下機のためには八品所顕の本因下種の妙法に限るとする。
また当宗本尊は日蓮聖人に限る、脱益の教主釈尊は断惑証理の在世正宗の機に対しては本尊となるが、末法下種の教主は未断惑の導師日蓮聖人をもって本尊とするのであるという。
次に日有は大石寺門徒の守るべき化儀を教示し誡飭している。
日有の時代はさきに京都では妙覚寺日成、日延らがあって「妙覚寺法式」を制し不受不施義を主張して宗門の化儀に活をいれたが、その後本法寺日親が盛んな折伏活動を展開して不受不施義を高揚、更に本能寺日隆が「本能寺法度」を定め門家真俗の規範を制定し、また関東方面では身延の行学院日朝があって厳粛な化儀を制しているが、当時の不受不施制は一般の信徒を対象とし、公武等の権力者に対しては他宗、未信、謗法者として見ない王侯除外の不受不施制であった。
ただ日親だけはこの中にあって特に強烈な不受不施義を主張し、その故に一般には受入れられなかったようである。
日有の化儀の方規も当時の規制の範囲の中にあることはいうまでもない、而してこの清規は大石寺門家の指導に大きな役割を果している。
まず神社参詣を禁ずる義について「他宗の神社に参詣し一礼もなし散供を参らする時は、謗法の人の勧請に同ずるが故に謗法の人」である、なかんずく神は謗法の人の勧請の所には栖み給わぬから、そこに詣でることはかえって諸神の本意にそむく、但し見物・遊山に行くことは参詣でないからよろしいとする。
謗施・法施の受・不について見ると、謗施の制止は自明のことであるから別に定めていないが、他宗・他門の特別な施物・供養はどの程度まで受けられるか、法施である祈祷や仏事の回向・追善はどこまで許されるか、これは勿論世間の仁義・愛礼と関連して考慮されねばならぬが、社参を禁制しているのと異なりその扱いは極めて寛大かつ融通性にとんでいる。
例えば他宗の人が祈祷を頼んできたとき、この病が御祈祷によって平癒した時は法華宗に改宗するという約束の上で祈祷せよ、その約束もなく他宗の祈祷をすることは謗法に同ずる、と教えているが、これは他宗たりとも「一分の信」があればよいとするものである。
またその在所において仏事作善を広大になすとき、その所の謗法の地頭などの方へ酒の初穂をもって行くことは世事、世間の仁義であるから差支えない。
また他宗・他門で仏事法要を行うとき、その土地の然るべき法華宗の寺に酒の初穂をおくることも一向に世事であるからかまわないと極めて寛容である。
また賽銭や散供について、他宗・他門の人が当方の堂へ参詣し散供を参らすことは制するに及ばぬ、参詣したことは既に順縁の人であるからであるという。
当時一般に散供や擲銭(なげせん)は非礼の供として厳制している京都に比すると、極めて緩やかである。
また他宗の仏事の座に法華宗の僧が所用で赴いたとき点心などの茶菓子、間食などを出されたとき、これを食するのは世間の仁義である。
勿論、読経回向したり布施供物を出すことは厳に制禁されている。
これと共に法華宗の宅へ禅宗、念仏宗の僧がふと来入したとき有り合せの物を出すことは謗法者を供養したことにはならぬ、これはあくまで世儀である。
また法華宗の仏事作善に親戚の中に他宗の人があり、共に供養を営むことがあっても、法華宗の人が供養主、檀那となっておれば差支えない。
これは他宗の施物を法華宗の人が施主・檀那となって謗供を清浄施となすからである。
この態度は謗供を直接に受容しない後世の施主論として容認された謗供転受の考え方である。
また財物の不施についても「法華宗は他宗の仏事作善をば合力せざるが功徳なり、その故はかたきの太刀、刀をとぎて出すべきか、敵の要害をこしらえて無用なるがごとし、仍て他宗の仏事合力をなすべからず、但し公事なんどの儀は別の子細なり」といっているが、これは不施の理念の一義を述べたものである。
なお「公事」の義は各別とするは王侯除外の態度であって、これらから見るに一般に京都中央の不受不施義より寛容であることが知られる。
《堀日亨『有師化儀抄註釈』(『富要』一巻)、執行海秀『日蓮宗教学史』、宮崎英修『不受不施派の源流と展開』、『日興門流上代事典』「日有(大石寺第九代)」の項、『日本仏教人名辞典』「日有」の項》