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妙成寺(石川県羽咋市滝谷)

みょうじょうじ #1513

妙成寺(石川県羽咋市滝谷)

みょうじょうじ

日蓮宗由緒寺院の一つ。
石川県羽咋市滝谷町に所在。
金栄山と号す。
日像(一二六九-一三四二)の開基、永仁二年(一二九四)創立。
その前身は真言宗滝谷寺とも伝えるが定かではない。
伝によれば日像は永仁元年、佐渡霊跡巡拝を終えて都へ上る途次、七尾港への船中で石動山天平寺座首満蔵法と問答になり、これを屈伏した。
折から海上にわかに大荒れとなり、日像は独り船ばたに立って題目を高唱すると波は静まり、船主番匠弥右衛門始め、船中の一同が心伏した。
に案内されて山伏の本拠・石動山に登り大衆を折伏して迫害に遇い、追われて麓の馬場で加賀太郎・北左衛門の兄弟が身替りに難に殉じ、危うく虎口を脱した日像らは滝谷に脱れた。
土豪柴原法光の帰依を受け、今は心から帰依する満蔵に法華深秘の法門を伝授し、名を日乗と賜わり、都からたずさえた杖を岩に挿して「我に所願あり、杖芽を出さば一寺を建立せよ」と告げて日像は都へ急いだ。
塊えんじゆの奇瑞に驚いた日乗は、柴原法光の外護により、妙成寺を建立、日像を開山と仰いで、そこは「日像弘法最初の霊地」となったと伝える。
日乗は一一〇歳の長寿を保ち、よき後継者源海・潮源・日立らを得て、妙法を北陸地方に弘伝し、その弟妙文もまた越前に活躍した。
永和元年(一三七五)日乗は加賀能登両檀越を源海・潮源に譲り、弘通を励ました旨記録されている。
室町代、応永二二年(一四一五)、能登の士、得田章光が願主となって『法華経』八巻本の開版がなされ(北陸版として最古のもの、現存)、同二五年源海は行寺創立、日立は柴垣に本成寺を創立、日存は金沢に円光寺創立、日舜の弟子日長は玉寿寺を創立するなどして、相次いで法華寺院が建立された。
正二年(一五七四)には、前田利家が能登の領主として巡視に際し妙成寺に赴いて、十一世日充から日像開基の寺であることを知り、三十番神に祈願し、心願成就のための土田庄の内一三俵の寺領を寄進して祈願所となし、制札を門前に掲げてこれを保護した(『日蓮団全史』上、四五八頁)。
文禄二年(一五九三)一二月一九日、利の甥である石動城主前田利次(利秀・幼名又次郎)が戦死すると、妙成寺日充が引導して法号を良将院と名付けている。
このころ長谷川信春(後に等伯と名乗る)筆の涅槃像、日蓮聖人画像、二祖日乗画像が納まる。
慶長八年(一六〇三)、前田利の側室で三代利常の生母、寿福院の菩提所となる。
同一〇年、利常城主となり、同一三年寿福院の甥の日淳が一四世を嗣ぐ。
利常、一〇〇俵分の役免許状を下し、同一九年本堂を、元和元年(一六一五)祈願堂の三十番神堂を建立。
翌二年、客殿、同四年に五重塔を造営した。
更に元和九年、三光堂、寛永元年(一六二四)、祖師堂、翌二年楼門、鐘楼、寛文一〇年(一六七〇)には経堂を順次建立した。
諸堂建立の大工棟梁は、坂上又三郎、坂上越後守嘉紹、坂上右近の三代に亘り、名工山上右衛門は右近の子であり、前田御用大工として名高い。
これより先、寛永八年、利常は妙成寺を加・能・越三ヵ総録所となしている。
今、延宝貞享年(一六七三-八七)加賀藩呈出『貞享二年加州越中能州法華宗拙僧触下寺庵由来書付写之帳、滝谷妙成寺』によれば、加賀・能登・越中の日蓮宗寺院は妙成寺の触下となり、それらは加州六四ヵ寺、能州三四ヵ寺、越中二〇ヵ寺に及んでいる。
そのうち妙成寺末寺は四二ヵ寺、塔中は七ヵ寺を数える。
一五世日条も寿福院の甥で、姓は上本氏、金沢経王寺と両山一主の制を継ぎ、前田光高は三四石八斗一升の寺領を寄せ、合せて一二〇石余りとなり、ここに妙成寺はその最盛期を迎えた。
一七世日伝はまた寿福院の甥で、初め中正院日護、後に心性院日遠に師事し、中村檀林化主となり、次いで妙成寺に入る。
万治二年(一六五九)に書院を建立、金沢に三宝寺を建て、蓮光寺、興得寺、常栄寺を相次いで創立し、更に金沢に蓮華寺、羽咋に浄心寺を建立し、経営大いに努めた。
更に七面社を創立し、治水産を興し、大石を法力によって割って良田数十町歩を開き、今も伝師開(でんしびらき)と呼んで民衆に敬慕され、妙成寺の内外を整備、中興の祖と仰がれる。
のち身延に入山して「伝」を「奠」と改め、奠師法脈の祖となる。
十一世日充、一三世日鳳は少欲知足、六根浄の大徳と慕われ、一四世日淳、一五世日条、一七世日伝と相次いで寿福院縁故の名僧が輩出して寺門興隆した。
前田は初代利から利長、利常、光高、綱紀、吉徳と六代に亘って外護丹誠をこめて、現存一〇棟(重要文化財)を数える代表的建築群を有する名刹が出来上ったのである。
歴代を見るに、一七世日伝以来、二二世日陶までは中村檀林出身の伝師法脈系で、二三世日亮から飯高檀林に代り、二四世誠峯院日竟は身延に瑞世し、日皎は身延後住に推されたが病没のために止み、二七世心地院日塔は読経二〇〇〇部、また詩文に秀で、和歌に長じ『中山心情』を作って巧みに妙成寺諸堂参詣を詠じ、盆踊り歌として人口に膾炙して、今日もこの地方の人々に妙成寺が親しまれている。
四〇世、再住四五世如是院日養(-一八六六)は越後良寛の妹・山本むら子の子、ち良寛の甥であり、越後寺泊の人、一三歳にして同円徳寺日慈の門に入り、旭亭と号して墨梅を画き、世に梅木御前と称せられた。
五重塔裏手には、加賀騒動の大槻伝蔵の塔が秘かに供養せられていたことが最近、作村上元三によって世に知られる。
《『史大辞典』一三巻「妙成寺(石川」の項》

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