身延山布教
身延山布教
みのぶさんふきょう
第十一代日朝のとき定められた『身延山年中行事並久遠寺月行事輪次』によると、正月一三日には「早朝辰刻祖師堂直ちに高座に登る。十如是、自我偈、御説法(略)」とあり、更に二月一五日の涅槃会、四月八日の誕生会、七月一五日の施餓鬼などの法要に必ず御説法の行われたことが記るされている。
また八座講談などの法華八講も定められているところからして法要の場がそのまま御説法という布教の場を意味している。
これは恐らく当時のしきたりを成文化されたもので、説法談義は古来甚だ盛んであったようである。
聖人の弘通精神を受継いだ身延山として当然であろうが、後代になるとむしろこれを規制するような記録があるほどである。
寛文五年(一六六五)日奠の『法式の条目』には「本寺本山貫首の外弘通並に勧進の説法堅く停止の事。所化衆者猥りに談義致す可からざる事。惣而説法者は講席に於て仕形戯言等堅く停止たる可き事」などの掟があるところを見れば、説法談義が世間のひそみをかうほどに盛んに且つ乱脈に行われていたようである。
次に寛文一〇年頃に日筵によって定められた『身延山西谷檀林の万代式目』には、甲斐国並びに駿河国富士郡(現・富士宮市)において上座五人以外の者には説法を禁ずる旨が厳重に定められていることは、説法の弊害を除こうとするためで、それほど盛んに行われていたことを示している。
西谷檀林学徒の講学はまた布教につながり、延亨二年(一七四五)十一月には、檀林の上中座の学僧が三門において身延講中のために月次説法を開始したとの記録がある。
更に宝暦三年(一七五三)四月一日より六〇日間、江戸深川浄心寺において身延山出開帖を行っているが、これは身延山出開帖の初めであり、これより繰返し行われた。
このような機会こそ布教の絶好の機会として身延山と信徒との結縁が盛んに行われたことを意味している。
天保八年(一八三七)第三回の江戸出開帖が深川浄心寺で行われ、翌九年には貫首名代の大阪巡説が行われているが、これは三六年目というから、大阪への布教も徳川時代までは容易でなかったことがわかる。
しかしこれに続けて天保十一年までに中国、四国、九州各地へ貫首御名代布教を行っている。
徳川時代までの駕籠や輿による旅では貫首の布教は、特殊の場合以外は御名代によったのであるが、明治時代に入ると交通事情が一変し、これより各方面へのご親教がにわかに盛んとなりまた一般に対する布教活動も広く且つ頻繁に行われるようになってきた。
日鑑・日慈・日布・日謙・日円・日静の各法主はその足跡を全国にのこし、日布は身延入山以前ではあるが、台湾、朝鮮に布教し、日静は九〇歳の高齢をもかえりみず北米に三回も親教の旅を続けられた。
法主親教を頂点として身延山では三大会、年中行事、記念法要等を期して布教宣伝に努めたが、昭和八年(一九三三)八三世日謙のとき特に布教作振のため山規を改めて布教部を特設し、柴田顗秀を布教部長に起用、その下に常任布教師三名、布教師五名を配し、更に各地に地方駐在教師を委嘱して、弘通第一の宗是に則り教化を推進した。
昭和九年には身延山布教講習院を開設して布教師の養成に努めた。
次いで日円は第二次大戦の直後にもかかわらず全国に自ら布教したばかりでなく、全国宗務所長に依頼して身延山布教師五六名を任命し、立教開宗七〇〇年の宣伝と身延山の顕彰に努めた。
次いで昭和三四年に猊座についた日静は、青年時代から布教一途に進んだだけに、特に布教振興に意を用いられ、新しい布教の方法として身延山街頭布教隊を結成し、布教部、山務役職員、身延山大学・高校の三者一体となって関東、中部、近畿、中国、四国の各地へ出動し、別動隊を九州、北海道へ派遣した。
これは身延山を批謗する新興教団への対策の一つではあったが、本宗正統教義の弘通宣伝を主たる目的とした布教であった。
これは各地で寺院・信徒の熱狂的支持協力を得て、三〇〇、五〇〇、一〇〇〇と合流参加するものが続き信仰の一大デモンストレーションとなった。
これは単なる示威ではなく、至誠の唱題行進であり、街頭に叫ぶ布教であった。
現に全国各地で本宗青年僧に受継がれ続けられている。
身延山内では山内布教師による毎朝の勤行に続いての説教、年中行事の折の特別布教、山梨県布教師会員の庭前布教、山内各所の掲示板伝道、テレフォンサービスによる二四時間伝道、それに大正一〇年以来今日に続く月刊機関誌『みのぶ』による文書伝道、毎週日曜日の山梨放送のラジオ布教、それに全国各地からの要請による出張布教、また施本布教、更に新設の身延山信徒研修道場における信行指導などが現に行われている布教活動である。
《『続身延山史』、教誌『みのぶ』》