法主御親教
法主御親教
ほっすごしんきょう
身延山久遠寺住職の布教をいう。
天保八年(一八三七)から一一年にかけて日潤、日心の代に大阪及び中国、四国、九州の巡回布教に日祥、日孝が貫首御名代として差遣されているので当時、身延山の住職としての巡錫布教は、名代において行われたことがわかる。
これは明治時代以前の交通機関の状況を考えれば、特殊の場合を除いて法主自らの御親教はむずかしかったと思われる。
明治に入ると布教興学に特に意をそそがれた日薩、日鑑、日修が続いて猊座につき、盛んに親教が行われた。
殊に明治八年(一八七五)の大火のあとその復興のため日鑑は明治一三年に九州を巡錫親教され、翌一四年かさねて九州におもむき、一五年に東北地方、一六年に両総地方に親しく布教された。
次いで日厳は本堂再建のため山梨、静岡、東京、横浜、長野、新潟、佐渡、九州各地を巡回し親教したが、中途病を得て中止のやむなきに至った。
次の日良は三門建立のため三二年より四一年まで北陸地方、東京、北海道、京都、大阪、神戸、三重、九州地方に親教された。
次いで日慈は山林復古のため大正二年(一九二三)より東京、愛知、岐阜、静岡、北海道、岡山、長野、九州、神戸、横浜、大阪、八王子を巡回親教されているが、実に七七歳から八三歳に至る高齢をかえりみない常精進であった。
日調は各地親教の計画があったが、関東大震災その他の事情により中止となり、次いで日布は大正一五年より、六五〇遠忌奉行と仏殿納牌堂建立のため、山梨、静岡を手はじめに名古屋、一宮、中国地方から九州各地へ、更に北陸から再び九州へ、新潟、北海道、三重、岡山、大分、福岡と巡回親教し、長野にて徴恙を覚え静養の止むなきに至ったが「布教途上に倒れるは教家の本望」とて敢て名古屋の親教におもむき、布教先の大光寺で遂に倒れた。
日帰は在位僅かに十ヵ月とて御親教のことは記録にない。
次の日謙は昭和六年(一九三一)より一八年までの間に祖廟整備、法主即管長制の実施、三派合同などの大事を果しつつこの間、四国、九州、静岡、大阪、岡山、広島、高知、東北各地、北陸各地、名古屋へ巡錫親教された。
次いで日円は昭和一八年より三二年まで在位で、あたかも戦中、戦後の混乱期ではあったが、あらゆる不便を忍んで布教専一に東奔西走せられ、長野、石川、京都、大阪、山梨、北陸各地、新潟、静岡、名古屋、岐阜、九州、佐渡、広島、岡山、愛知、岡崎、滋賀、東北各地、北関東地区、鳥取、島根、四国、北海道の各地に親教された。
ことに為宗為法八九歳まで続けられたことは稀有のことといわねばならない。
次の日遠は昭和三二年より三四年まで二年の在位であり、内外多端の状勢であったためと、祖廟常経奉仕殿建立のため親教出駕の記録はない。
日静は昭和三四年より四六年まで一三年の在位中に、九州、名古屋、新潟、佐渡、愛知、岐阜、三重、広島、山形、秋田、大阪、北海道、青森、岩手、九州と巡錫親教されたばかりでなく、三八年にはハワイ、三九年には北米西岸、更に四五年には北米各地の各教会を親教巡回し、教況を親しく視察された。
また法主の海外親教はこれが初めであり、九〇歳にして海外布教に旅立たれたことは特筆すべきことである。
次の日雄は昭和四七年より四九年までに兵庫、能登、名古屋、北海道へ親教された。明治以後、交通機関の便宜となるに従い歴代法主御親教がいよいよ盛んに行われているが、このほか各地の開堂供養、立教開宗、御生誕その他の記念行事における大法要の大導師として出駕をかねての御親教は、これまた相当な回数にのぼっている。
総本山身延山久遠寺法主という宗門信仰の最高位にある身分の故に、全国各地信徒の敬仰ただならぬものあり、教益甚大であるが、法主御親教は伝道宗門の面目を象徴し、今後においてもいよいよ盛んに行われることと思う。
《『身延山史』、『みのぶ誌』、『日布上人』、『日謙上人余香』、『日円上人余香』、『身延日静上人』、『身延日雄上人』》