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日領(守玄院)

にちりょう #3196

日領(守玄院)

にちりょう

(一五七二-一六四八)
初め正覚院と号し、寛永六年(一六二九)の頃より後は守玄院と号す。備前(岡山県)の生まれ。
小湊誕生寺一四世(一六世ともいう)、小松原鏡忍寺九世(一三世ともいう)を歴世し、上総小西檀林の玄義・文句両度の能化職を務めている。
池上日樹に強く傾倒し、日樹より二歳年長であるが、自ら弟子(寛永三年一〇月一三日宗祖涅槃会に認めた本尊には「池上日樹上人御弟子 正覚院日領花押 房州誕生寺」と記している)と称し、盛んに不受義を宣説した。
かくて寛永七年二月二一日の身池対論の結果、佐渡塚原に配流と定まったが、奥州相馬藩(中村藩ともいう)の老臣池田次郎左衛門尉直介は、深く日領に帰依していたので、その来国を強く念願し、主君を通じて幕府に移管を請うて許されたのである。直介は一宇を草して日領を迎えた。これが後の法王山立寺(開山日領、開基直介)である。
在位一八年、慶安元年一一月二三日遷化。世寿七七歳。不受不施「前六聖」の一人。
上足の心性日頼は、立寺二世を継ぎ、翌二年(一六四九)九月日領の木像を造立したという。
また玉造檀林の祖である長遠院日遵も日領の資であるという。
著書には『蓮祖格言』一巻、『日蓮本地義』二巻を著して、真迢の『破邪顕正記』を論駁している。
その他『蓮祖大士窮源抄』四巻、『本迹同異決』三巻、『当家沙門不可受謗法人施物決』一巻、『法苑珠林条目』一巻などがある。
なお『啓蒙』には、日領に『当家観心抄』の著があったことを伝えている。
日領の学上の特徴について見ると、
(1)『日蓮本地義』によれば、日蓮聖人は上行菩薩の垂迹であると説く。即ち日領は正法千年像法千年末法万年説によつて計算し、人皇七〇代後冷泉天皇の永承七年(一〇五二)に末法に入るとの定説によって、「日蓮入寂の後、寛永第十九壬午年迄、三百六十一年也。去る永承七年より計れば、五百九十一年」になるといい、聖人はこの第五の五百歳中の第一の大導師なりとして、経証に従って、上行菩薩垂迹の一証としたほか、なお多くの経証を挙げている。つまり日領は聖人の本地論を強調し、聖人への熱烈な信仰を鼓吹したのである。
(2)『蓮祖大士窮源抄』によれば「妙法蓮華経は三千具足の一心性にして、三千出生の一心性なり」といい、大曼荼羅を説明するに、心性具変をもってしていることである。
(3)本迹論についてであるが『窮源抄』によれば「貧体即覚体名本覚理也。若覚貧即菩提名始覚理也」と釈して、「本覚と云も始覚と云も其心性の妙法蓮華経に於いては少しも勝劣は無きなり」といい、「本覚始覚其体二つなければ」と本門迹門の一致を説いている。
(4)仏陀論についてであるが、日領は多の存在を認め、ことに弥勒の出生を期している。
(5)成仏論では、日領と同時代の諸師と同じく、現世利生、未来得脱を期するのである。
(6)修行方法論であるが、題目正行・読誦助行を主張している。
以上述べたように日領の学は、台学思想の域を出ず、いわゆる「台学ずり」であるといわざるを得ない。
要するに信仰実践においては、その意気は大いに認めねばならないが、やや自論の弱さを指摘されるを免れない。
しかし当檀林系の不受不施論者の学は、日領に限らずおおむね当時流行の台学偏重思潮に禍されて、純粋な日蓮学の発展が阻止されつつあった界現象を具体的に呈示するものであるから、台学偏重は止むを得ないだろう。
執行海秀『日蓮宗教学史』、望月歓厚『日蓮宗学説史』、宮崎英修『不受不施派の源流と展開』、『宗全』二一巻、『日本仏人名辞典』「日領」の項

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