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日迢(舜統院真迢)

にっちょう #3104

日迢(舜統院真迢)

にっちょう

(一五九六-一六五九)
字は初め南星、次いで円韓といい、日迢と号したが、転宗後伝心と改め、更に真迢と改める。舜統院と号す。
京都の人、俗姓は斎部氏。
妙蓮寺一五世日舜の門に投じ、元和元年(一六一五)二〇歳の関東に下って飯高檀林に負笈し、中正日友・真応日達・禅那日忠のに侍して研鑽した。
飯高に学ぶこと前後七ヵ年、元和七年四月中村檀林に移り寂静日賢の会下に参じた。
同月一帰洛して妙蓮寺一六世日源より隆門所伝の宗要を授けられ、九月再び中村に帰檀した。
ところが日迢の言によればもなく学徒のに一致勝劣の論争が起り、遂に勝劣派の学徒五〇余名は中村を退出したので、勝劣派出身の日迢も行動を共にしたという。
しかしこれは当の記録等からむしろ他の個人的な理由により、何か不義の行があるなどして学室を追われたとする方が妥当と思われる。
その後同学の長遠日遵を介して松崎顕実寺の辺に暫く寓居し、なおも中村への復学を望んだが、遂に容れられることはなかった。
かくして中村への還住を断念した日迢は翌八年の春上総に移った。
上総では勝劣派大沼田檀林で隆門の唯心日乾に学び、更に宮谷檀林で什門の自然日信に師した。
寛永四年(一六二七)三二歳の、駿州岡宮にかつてえを受けた光長寺一三世日詮を訪ね、暫くここにあって『法華玄義』『四教義』『十不二門』『文心解』等をじた。
寛永八年頃帰洛した日迢は、一七世日然の譲りをうけて同九年妙蓮寺一八世の法灯を継承した。
しかし日迢は寛永一二年日蓮宗を脱して天台宗に転ずる。
その由として日迢自らは日蓮学に対する不満による捨邪帰正であると弁明している。
これに対して『破邪顕正記』を破した日賢、日領等は、日迢の格が諸人にうとまれ、排斥されて妙蓮寺にいられなくなったのだ、としている。
四月横川の戒光院法海を介して叡山に登り、横川龍禅院に寓したが、間もなく病に罹り九月下山して四条片山興安法印の寓居に病を養うこと半年、翌一三年夏登山して横川の法住院に寓した。
その年一二月、洛の盧山寺において『破邪顕正記』の執筆にかかり、翌一四年三月これを脱稿、一五年には坂本西教寺に晋み、転宗名を伝心と号したのをこの真迢と改めている。
一六年『破邪顕正記』を刊行。
一九年頃天海に招かれて江戸寛永寺に趣き経の役者を勤め、薬師堂に住した。
慶安四年(一六五一)の頃より『禁断日蓮義』の製作にかかり、承応三年(一六五四)完成した。
晩年は醍醐に隠棲して明星山極楽寺を再建し、不断念仏を修し、萬治二年(一六五九)には『禁断日蓮義』が刊行された。
この年の一一月二日真迢は六四歳をもって京都因堂に寂したという。
日蓮宗側の所伝では、真迢はやがてその性格故に天台宗からも嫌され、還俗して商人となり、のち癲病を再発して死亡したともいう。
ところで真迢は転宗以来辛辣極まる毒舌をもって日蓮聖人並に宗義を誹謗し罵倒したのであり、これに対しては日蓮宗では特に不受不施論者の学僧から盛んな駁論がなされたのである。
ち『破邪顕正記』に対しては寂静日賢が『諭迷復宗決』並に『同別記』を、守玄日領は『日蓮本地義』を、長遠日遵は『諫迷論』等を著し、それぞれ反論を加えたのである。
そこで真迢は更に弟子真陽の名をもって『禁断日蓮義』を著し日賢・日領・日遵の三師を獅子身中の三虫と誹謗し、殊に当時の日蓮団の内情を暴露することに努めた。
ここにおいて三浦日航は『摧邪真迢記』、観妙日存は『金山抄』、蓮華日題は『中正論』をもって反駁した。
しかしこれらの書が世に出る頃は既に真迢は没していたので、これ以後の応酬を見ずして対論は終りを告げたのである。
蓋し真迢の出現は一面では本宗を覚醒せしめる刺激となったのである。
著作としては転宗以前のものに『観心異論決』『法華宗略名目』『法華玄義捃釋』『四教儀解新抄』『西谷名目抄』があり、転宗後のものに『破邪顕正記』『同統記』『念仏選摧評』『禁断日蓮義』『十宗略記』『温故助導集』等がある。
《『続日本高僧伝』、『禁断日蓮義』、『仏全』宗論叢書、『金山抄』、執行海秀『日蓮宗教学史』、宮崎英修「舜統院真迢の研究」(『波木井南部氏事蹟考』)、同『日蓮宗の人びと』、『史大辞典』七巻「真迢」》

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