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真迢(舜統院・日迢)

しんちょう #4234

真迢(舜統院・日迢)

しんちょう

(一五九六-一六五九)
字を円韓と称し、日迢と号したが、転宗後伝心と改め、坂本西教寺に移った時、真盛上人の霊夢によって真迢と改めたという。
慶長元年京都に生れた。 幼くして京都妙蓮寺一三世日舜について剃髪し、日舜の寂後、同一四世芳徳日源に師した。 元和元年(一六一五)二〇歳の、関東の飯高檀林に負笈し、中正日護・真志日達らに学んだ後、元和七年夏、中村檀林に転学したが、間もなく帰洛して妙蓮寺日源より隆門所伝の『四帖抄』の相伝を受け、同年九月再び復校した。 ところがその年の冬、学徒のに一致勝劣の口論が起り、勝劣派の学徒五〇余名は遂に中村を退出したので、真迢も行動を共にした後、同学の長遠日遵を介して松ケ崎顕実寺の辺に暫く寓居し、中村への復学を望んだが容れられず、翌年春、上総に移った。 上総に遁れてからは、勝劣派の沼田檀林で隆門の唯心日乾に学び、更に宮谷檀林で什門の自然日信に師した。
寛永四年(一六二七)三二歳の、駿州岡ノ宮に往指南を受けた光長寺一三代日詮を尋ね孝養をつくし、同寺で法華玄義、四教儀、十不二門、文心解等をじた。 その、宮谷・沼田両檀林より招請を受けたが応ぜず、ひたすら研学に精進したという。 このように、前半生専ら日蓮学のために力をつくしたが、寛永九年、三七歳で妙蓮寺貫主となって以来反宗的となり、遂に日蓮宗を脱して天台宗に転じた。 その由として、彼自らは日蓮学に対する不満による捨邪帰正であると述べているが、日蓮宗側の記録によれば「苦治を恐れて遁世の名を借りて退出し、露命続き難きによって台宗に帰伏す」(日賢・諭迷復宗決)といい、日存の『金山抄』には寺中の老若に疎まれて出寺し、本能寺日善を介して再三調停を依頼したが容れられず、やむなく転宗したと伝えられている。 脱宗後、寛永一二年春、横川戒光院の法海を介して比叡山に登り、孤独衰弱の中で病魔と闘いながら圓頓戒の復興と念仏三昧の日々を送った後、山門の亮算の推薦で、当時無住であった坂本西寺の一五世の法燈を継いだ。 寛永一八―九年頃、天海の招きによって武州の帰命山薬師寺に住し、関東檀所の講師となり、間もなく比叡山に帰って大僧都に叙せられたという。 晩年は醍醐に隠栖し、明星山極楽寺を再建、不断念仏を修し、万治二年一月二日、六四歳で京都因堂において寂した。
脱宗者真迢は日蓮聖人批判書『破邪顕正記』を著し曲筆を振って悪罵した。これへの日蓮宗側の反論書『諭述復宗決』『日蓮本地義』『諌述論』等が出たが、それらへの再反論として弟子の名で『禁断日蓮義』が出された。真迢の反宗事件は日蓮宗門に甚だしい衝激となり、学覚醒の会を与えられることとなった。
《『続日本高僧伝』、『禁断日蓮義』、『仏全』宗論叢書、『金山抄』、執行海秀『日蓮宗教学史』、宮崎英修「舜統院真迢の研究」(『波木井南部氏事蹟考』)、宮崎英修『日蓮宗の人びと』、『史大辞典』七巻「真迢」

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