大沼田檀林
大沼田檀林
おおぬまただんりん
鷲山寺日弁門流の学問所。
文禄三年(一五九四)鷲山寺一〇世日進が上総田間村(千葉県東金市)にあった学問所を大沼田妙経寺境内に移転したことが当檀林の起源である。
しかし当初は檀林としての規模はもっていなかった。
元和八年(一六二二)徳川秀忠が鷹狩の際、大沼田へ立寄り、時の能化唯心院日乾が学問所の由来、状況を具に述べ、境内竹木朱印を賜わった。
日乾は能化五世であったが、これを機に後年師を初祖と仰いだ。
従って当檀林の創設は元和八年である。
慶安三年(一六五〇)の『朱印地相続届書』によると「境内東西七十間 南北百廿間 高六石八斗 境内竹木朱印地 所化寮三十六軒 脇坊一軒」とある。
規模としては極めて小さな檀林であった。
学徒数は『禁断日蓮義』巻二によると寛永四年(一六二七)迄のことを宮谷檀林と同様倶に数百人の僧俗ありと記しているが、僧侶の数は宮谷よりはずっと少なく、とても数百人いたとは思えない。
記録に残っているものでは一〇〇人前後が最盛期で少ない時は一〇名を割ることもあったようである。
学問の階梯は他の檀林と大差なく条箇・集解・玄義・文句の四部に分かれ、満功迄には三七ヵ年を要した。
当檀林は弁門の檀林として発足したが、弁門のみでは経営が困難で、什門の力をかりなければならなかった。
即ち北は片貝より南は真亀に至る四里四方の什門学徒は宮谷檀林に行かず当檀林で学ぶことになっていた。
然るに寛永一八年(一六四一)学徒の間に訴訟が起り、まさに廃檀にさらされた時三世日弘が復興に力を注ぎ、中興の祖と仰がれた。
また元禄の初め頃六世日治の代にも衰微し、能所化合せて七名しかいなくなった。
その時、宮谷檀林に学んでいた陣門学徒は宮谷の能化と不和になり、七五名の学徒を引率して当檀林に入檀してきた。
これにより廃檀せずに命脈を保つことが出来たが、陣門が勢力を得るようになった。
そして遂に鷲山寺の貫首職をも陣門が指示するようになり、寛永元年には貫首職を陣門にするよう当檀林で推挙し、それが果たせぬと弁門の僧二名が陣門に対し自害して責任をとった事件もあったほど陣門の勢力が強かった。
しかし陣門は享保九年(一七二四)神奈川に三沢檀林を創設し、陣門が去って大沼田は火の消えるが如く急激に衰退し、宝暦五年(一七五五)七月、大風により堂宇は殆ど倒れた。
門中の総力を挙げ、天明五年(一七八五)五月再建されたが、もはや往年の面影は全く見られなかった。
《石井與一郎『大沼田檀林誌』-未完-》