日辰(広蔵院)
日辰(広蔵院)
にっしん
(一五〇八-七六) 京都要法寺の第一三世で広蔵院と号す。
後世尊門の宗義大成の学匠として「尊門の中興」と称えられた。
日辰は永正五年八月二六日、京都綾小路西洞院で生れ、幼名を寿成といい、父は村田量親(かずちか)、宗親(そうしん)と号し、父祖代々大和に住み、田村が俗姓であったが、京へ出て同郷の人で茶道の開祖村田珠光の門に入り、ついにその三代の宗家を継ぎ姓を許されて村田と改めて村田宗親と号した。
寿成は七歳の永正一一年二月、両親が帰依していた住本寺第一一世日法について得度、法名を右京と名づけられたが、その二年の後、日法遷化のため、第一二世日在に師事した。
そして常楽院日慈に従学のほか、一八歳のころ本隆寺の開祖日真の会下にも参じて、台当の教学の研鑽に努め、享禄三年(一五三〇)八月、二三歳のとき富士西山本門寺第一一世日心の門に入り、翌年五月帰京して、三位宣賢(環翠軒宗尤)について神道国学をも学んだ。
更に二九歳の天文五年(一五三六)四月には、九州日向にくだり九沢について周易を学び、のち三二歳のころ、瑞竹意菴道三について医学をも修めた。
天文一〇年の秋には、洛東建仁寺の一花について儒学を学び、更に天文一四年九月より北野宮寺の経蔵に入り、一切経を閲覧、天文一六年七月には、ついに『大蔵抜萃』五〇巻を撰した。
このように日辰の出家得度以来三〇余年の長きに渉る修学期間は、稀れにみる幅の広い内外典の研鑽が積まれたのであって、このことは後に膨大な等身といわれるその著述に活かされたのである。
さて日辰の事跡として、まずあげなければならないことは、上行・住本両山を合併して天文一九年三月新たに「要法寺」と改称して・堀川綾小路に再興したことである。
即ち天文法難(一五三六)に洛中を焼け出された法華宗二十一箇本山の各山は、大方泉州(大阪府)堺に脱れたのであるが、尊門の上行・住本両山もまたその例外ではなく、堺の調御寺と本伝寺へ難を避けた。
ようやく法難後六年目の天文一一年一一月になって、法華宗徒帰洛再興の勅許を得て各山それぞれ帰洛復興していったが、尊門として上行・住本二本寺の還住となると容易なことではなく、ことに従来両者の反目不和の対立は、たがいに相容れぬものがあったから相互に協力して難局を打開するなどは思いもよらない状況であった。
このとき日辰は住本寺日在をよく扶けて両者の間を奔走して、上行・住本二者対立の禍根を断ち、かつ還住を容易ならしめる一本寺への合併案として「新寺法条目十五ヶ条」を制定してこれを示し、ついに「要法寺」として再興したのである。
この後、弘治元年(一五五五)第一二世日在遷化のあとを襲い、日辰は四八歳で要法寺第一三世の法灯を継いだ。
このように日辰は要法寺の復興に力を尽したのであるが、また一面広く興門全体の宗勢の挽回にも努めた。
そのころ上野大石寺は北山重須本門寺と伝統の正潤を争い、また小泉久遠寺と両山一寺の保田妙本寺とも戒壇の坊地問題で争い、北山本門寺は西山本門寺と本門寺の伝統を争った。
日辰はこれら諸山の内的対立反目を除かなければ教団としての対外的発展伸張は、あり得ないとして要法寺晋山のその翌年、弘治二年六月より永禄二年(一五五九)に渉る間、甲駿地方(山梨・静岡)の巡化に併せてこれら諸山の調停に努めた。
その結果、要法・西山両山の一味通用が西山第一二世日建との間に成り、また北西両山の調停は最も困難を極めたが、のちに重須第九世日出と西山第一二世日建との間に和融が成ったのである。
更には石山との間に人法通用を計らんとしたが、これは大石寺の第一三世日院の拒否するところとなり不調となったが、しかしこののち次の石山第一四世日主の代にいたって要石両山一寺の盟約が結ばれて、大石寺第一五世日昌より第二三世日啓にいたる九代は、要山よりの人材の送り込みにより法灯が継承されたのであって、日辰が端緒をひらいたことが実を結んだともいえよう。
さて後世興門の教学の雄として「西辰東我」の称がある。
西の京都要法寺の日辰、東の保田妙本寺の日我の謂である。
保田の日我は日辰より一歳年少であったが、このころ時を同じくして興門の教学の確立に力を尽したからである。
日辰の精力的著述については「毎日八十枚闕くる日なし」といわれる超人間的な驚くべき健筆振りで、等身の著述を残したといわれる。
その修学時代の要法寺晋山までの天文六年(一五三七)より同二三年までの間には『種脱得意抄』『不軽蓮祖立行記』『本門八品同異抄』『自我偈抄』『大蔵抜萃』五〇巻『本迹往来抄』『調御寺記録』『本迹問答』二巻などがある。
弘治元年(一五五五)要法寺晋山後、天正四年(一五七六)入寂までに『法華経序品略抄』一四巻『止観見聞抄』一〇巻『迹門前後五妙抄』二巻『法華訓蒙抄』五巻『玄七略大綱』二巻『本門十妙抄』二巻『本迹問答抄』二巻『造仏論義』『負薪記』『法華勉旃抄』三巻『読誦論義』『六十ヶ条論義』『冨山真俗類聚抄』『開迹顕本法華二論義得意鈔』六巻『祖師伝』『富士与当家異義』『本尊抄略消』三巻『会通同異抄』『法則抄』その他祖書注釈書などがある。
しかしこれらの中で公刊されているものは、わずかに『法華二論義得意鈔』六巻『造仏論義』『読誦論義』の三篇が『宗全』三巻に納められ、また『祖師伝』『負薪記』が日辰の四〇〇遠忌に要法寺より公刊されたにすぎない。
なお教学の振興と人材の育成とに努めた日辰の軌跡は、要法寺内に「勧学寮」を設け、子弟の教養に努め、その門下に実蔵院日賙、円智院日性などの学匠が輩出され、またその後には大雄院日恩、本種院日陽、知見院日成、恵光院日瑤、信行院日饒、隋信院日舒らが続いて、尊門の教学はその後江戸前期において興門教学の主流となったのである。
日辰は天正四年一二月一五日、京都堀川綾小路の要法寺で遷化した。
時に六九歳。
《『日蓮教団全史』上、望月歓厚『日蓮宗学説史』、原日認『法燈よみがえる―広蔵院日辰上人―』、『日本仏教人名辞典』「日辰」の項、『国史大辞典』一一巻「日辰」の項》
(原日認)
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