日像(妙顕寺・肥後阿闍梨)
日像(妙顕寺・肥後阿闍梨)
にちぞう
(一二六九-一三四二)
肥後阿闍梨・肥後房。
日蓮宗最初の京都弘通を行い、妙顕寺を拠点として京都日蓮教団発展の基礎を築いた。
下総(千葉県)平賀の豪族平賀忠晴の子。
母は後年妙朗尼といい、上殿と称された。
建治元年(一二七五)七歳の時、日朗の門に入る。
のち身延に登り日蓮聖人の弟子となって経一丸(麿)の名を賜い、器許されて玄旨の本尊を授与された。
以降、晩年の聖人のもとで行学に励み、聖人臨終の時には帝都弘通、宗義天奏を委嘱された。
聖人滅後、肥後房日像と名乗り、更に鎌倉の日朗のもとにあって宗義を研鑽した。
永仁元年(一二九三)二五歳の時、遺命を奉じて帝都弘通を決意し、所願成就のためその冬、鎌倉由比ヶ浜に毎夜百ヵ日間、寿量品の自我偈百巻を読誦し、翌年二月満願ののち、小湊・清澄・身延・佐渡の聖人の遺蹟を巡拝し、北陸道を伝道しつつ京都に向かった。
途中、能登の真言僧満蔵を論伏、のちの滝谷妙成寺開山日乗である。
更に加賀(石川県)・若狭(福井県)・近江(京都府)を巡化しつつ、永仁二年四月一四日京都に到着。
入洛し日毎辻に立って折伏教化に精進する日像の周辺に、公方の大工志、柳酒屋仲興ら、洛内の商工人が信者として集っていった。
これら京都における有力商工人の帰依は、日像のその後の伝道に大きな力をあたえると共に、のちの洛内日蓮宗の発展が、有力町衆信徒をその基盤として栄えていく契機となった。
その伝道は容易なものではなかったが、入洛後十数年をへて教勢が盛んになると、叡山徒を始めとする諸宗の圧力も強くなり、ついに徳治二年(一三〇七)五月二〇日、院宣により土佐幡多に配流された。
しかし実際には洛南の山崎に逃れ伝道していた。
翌々年の延慶二年(一三〇九)八月二八日、帰洛を許されたが、教勢の発展に伴う怨嫉の激しさは、翌三年三月八日再び院宣をうけ、紀伊獅子ヶ背に流罪となった。
しかし翌延慶四年三月七日、赦免されて綾小路大宮に構えていた法華堂に帰った。
この法華堂は多くの門弟の居住にたえ、またその場所も西国方面への要衡四条大宮口に隣接した土倉など商工人が集中する下京の中心に位置していた。
上洛以来十数年、日像の教えを信奉した支持層を示している。
一方、この二回目の追放の間、京都近郊の伝道を展開し、洛北松ヶ崎の天台宗歓喜寺実眼、洛西鶏冠井の真言僧実賢、深草極楽寺良桂等を宗論によって論伏した。
その寺が松ヶ崎妙泉寺、鶏冠井真経寺、深草宝塔寺となって洛内弘通の拠点となった。
また日像の松ヶ崎弘通により村民こぞって改宗し、歓喜のあまり題目を唱えながら踊ったことから松ヶ崎題目踊りが始まったという。
元亨元年(一三二一)一〇月二五日、日像は院宣により三度目の洛内追放を受けるが、わずか十余日にして一一月八日赦免された。
そして弘通の勅許を得た日像は、御溝の側、今小路に法華堂を移して妙顕寺を開いた。
上洛弘通を開始して以来、二八年の年月がかけられていた。
この三度の追放と赦免を三黜三赦(さんちつさんしや)の法難とよぶ。
元弘三年(一三三三)五月、日像の妙顕寺は後醍醐天皇の京都還幸を祈願すべき護良親王の令旨を得、還幸が確定するや、尾張・備中に三ヵ所の寺領が寄進された。
次いで翌建武元年(一三三四)四月一四日には「妙顕寺は勅願寺たり、殊に一乗円頓の宗旨を弘め、宜く四海泰平の精祈を凝すべし」の後醍醐天皇の綸旨を賜わった。
これは日蓮宗にとって一時期を画する出来事で、妙顕寺が教団最初の勅願寺となり、一乗円頓の宗旨公認、つまり日蓮宗の弘通を公許されたことは、中央政権から日蓮宗が公認されたことを意味した。
日像上洛以来、実に四一年目であった。
次いで建武三年には室町将軍家の祈祷所、北朝光厳院の祈願所となり、妙顕寺は公武の間にゆるぎない地位を占めていった。
そして暦応四年(一三四一)光厳院院宣を受け、妙顕寺は四条櫛笥西頬(くしげにしつら)の地一町を賜わり、この地に移った。
妙顕寺の流れを四条門流とよぶのはここに始まる。
かくて妙顕寺が勅願所、武家祈祷所となり、その活躍が東国に伝わると、諸門流は京都にのぼって祈願所となることを訴訟した。
しかし公武では妙顕寺の挙状・申状を帯びなければ取上げず、ここに妙顕寺は洛内日蓮宗の重鎮として、すでに教団最高の地位を公武政権から黙認されていたことを示している。
妙顕寺が四条櫛笥に移転した翌康永元年(一三四二)一一月一三日、日像はこれを弟子大覚に譲り、七四年の弘通の生涯を終えた。
弟子の大覚は延文三年(一三五八)祈雨の効験によって大僧正に任ぜられ、この時、日蓮聖人に大菩薩、日朗・日像に菩薩の三菩薩号を賜わった。
日像を日像菩薩と称するのはこれによる。
《『日蓮教団全史』上、赤松俊秀『日本仏教史』二「中世編」、宮崎英修『日蓮宗徒群像』、同『日蓮宗の人びと』、『日蓮辞典』『日本仏教人名辞典』『国史大辞典』一一巻「日像」の項》