妙傳寺聖典個人版 新・電子聖典

自力他力

じりきたりき #4553

自力他力

じりきたりき

自力と他力の併称。
自力とは自己の力。
仏道を修行して得た自己の智解・分別の力をいう。
他力とは自己の力用に対して他の力用、菩薩の加被・加護、経の救済力をいう。
仏力法力
自力・他力はその何れに頼って自己の救済を求めるかにより、自力主義・他力主義に分かれる。
法然は浄土門の念仏を弥陀の願に乗ずる故に皆他力であり易行であるとし、聖道門の自力・難行の修市に対してその優越を主張している。
親鸞は弥陀の十八願=念仏往生本願を信楽(しんぎよう)することのみを他力とし、行者のはからいを自力として退けている。
禅宗では「見性成仏」(一切の世俗的欲望から離れて内心を思惟する禅により、個人の内心に仏性のあることを徹見し、実相の当体と一致する所を成仏とする)を説き、自力の修行を勧める。
日蓮聖人は法華経の信仰が自力であるのか他力であるのか、現存する遺文の中では明言しない。
一般的には聖道門に属すことから自力であるといわれ、また不惜身命如説修行信仰を勧めることからも、自力であるといわれる。
しかしその自力を貫徹できるのは、の加護・四大菩薩の守護があるからであり、この点では他力ともいえる。
聖人は『一代聖教大意』の中で、十界互具の立場から「今の法華経は自力も定んで自力にあらず(略)他力も定んで他力にあらず」(定七三頁)と述べる。
聖人は「煩悩を断じ九界を厭うて仏に成らんと願う」法華経已前の諸経は「実には九界を離れたる仏無き故に往生したる実の凡夫もなし」と考えられ、そこに自力・他力を論ずることに重要さを感じられなかったのである。
聖人はインドの外道・小乗の外道・妙法を信じない大乗の外道を、四性計(釈尊以前のインド哲学界中の四大学派の説、自力・他力・共力・無因力)に計著する邪見の輩として破し、法華経の十界互具のみが、その四性の失を離れる円満具足の妙法であることを示す。
聖人は『観心本尊抄』で「釈尊の因行果徳の二法は妙法蓮華経の五字に具足す。我等此五字を受持すれば自然に彼の因果の功徳を譲り与えたもう」(定七一一頁)と述べるが、これは凡夫の身を釈尊が事具し、教主釈尊を凡夫が事具するという、釈尊と凡夫との互具の関わりにおいて初めて明かされている。
故に、ここに示される「受持」は、厳密には九界を離れるための行においてその立場を論じた「自力・他力」の用語を使って、立場の如何を論ずることができない。
一見、自力とみえる妙法五字の受持行は、即ち釈尊の因果の功徳の自然譲与となることから、他力を内含しているのである。
また釈尊の子としての我々凡夫は既に釈尊慈悲の御手の中に居るのであり、我々の行も最早、他力(釈尊の慈悲心)の中での自力の行となるのである。
自力の中に他力の浸透を認め、他力の中に自力の相を認める法華経の十界互具を拠所とする日蓮聖人の弁証法的思考は、禅を自力と称し、浄土を他力と称するのとは根本的に異なる。
禅は自力を強調しているが、その自力の中に自力の限界を越える高次の他力の論を説いていない。
また浄土教は自力(信ぜんとする自由意志)を既に行じながら、それをあえて自力とは認めず、絶対他力義に固執しているのである。
《『親鸞辞典』「自力他力」の項、『遺文辞典』学篇「自力」「他力」の項》

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