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根本寺(新潟県佐渡市)

こんぽんじ #3584

根本寺(新潟県佐渡市)

こんぽんじ

新潟県佐渡市新穂村に所在。
日蓮宗霊跡本山の一。 塚原山と号する。 もと寺号を正寺と称していた期もあった。
創立代については従来文永八年(一二七一)一一月一日とされ、日蓮聖人佐渡配流の当初塚原の地に謫居された当日を開創の日に当てていたようである。 しかし、この地に寺域を構え、祖師堂(正教寺)が創建されたのはこれより三〇〇年以上も経た正年(一五九〇年頃)のことである。
この流謫の地塚原は、当洛陽の蓮台野の様な屍骸や古墳の累々とした荒地であった。 聖人の住居、即ち一間四面の三昧堂は、往古真言宗弘樹寺の管下にあったという。 のち三昧堂には堂守が住したもあったが、無住の代が多かったようである。 寺伝には文年間(一五三二-五五)に、京都妙覚寺一五世本是院日護(一四三六-一五三二)の門人大泉坊日成(-一五六四)がこの地に来て、塚原の様を嘆き、里人と計って聖人有縁の地の興隆を発願し、天文二一年(一五五二)に地を構え、弘治二年(一五五六)に祖師堂を創し、自ら塚原の八世となり、のち天正一八年(一五九〇)には京都妙覚寺二〇世実成院日典(-一五九二)によって一山の基礎が確立されたとある。
ところで、もと弘樹寺の管下にあったことや、宝暦五年(一七五五)頃まで土地の境界を巡って両寺の争いが絶えなかった等のことから見て、弘樹寺管下での創立年代が問題となる。 「佐渡国寺社境内案内帳」(宝暦頃)によれば、永禄九年(一五六六)に現在の根本寺の場所に創立したというから、日成の時、即ち天文二一年に東西一〇三間、南北一九二間の地を構え、四年後に祖師堂を建立したという記述には問題が残る。 そこで日成は塚原の霊跡護持の為に尽力して一応の基礎固めを文二一年に実施し、のち日典により初めて正一八年に弘樹寺の境内地から独立して正寺が新たに建立されたと解すべきであろう。 真言宗弘樹寺の境内地にあった塚原の霊跡は、三〇〇年の星霜を経て初めてこの地に正寺として独立建立されたのである。
実成院日典は塚原の一一世に当る。 日典は塚原の遺跡を探索するため、妙覚寺より正一八年に渡島した。 日典の渡島を促した由の一つには、越後守護上杉景勝(一五五五-一六二三)の老で、正一七年(一五八九)の佐渡の本間家を攻略、佐渡を平定した直江兼続と、その父直江山城守景綱と日典が縁があり、京都妙覚寺とも深い関係にあったことから日典を佐渡に招いたともいわれている。 日典は兼続に塚原屋敷を懇望し、弘樹寺の寺地より田地三町六反歩を譲り受けて正寺を開いたのである。
日典は素願を達成して京都に帰ったが、爾来、妙覚寺より日容、日賢、日種、日是の四師が来島している。 正寺は妙覚寺によって維持・管理されており、妙覚寺とのに本末関係の観があった。 慶長二年(一五九七)に佐渡大泉坊日朝が当寺を創したという記録(『撮要年代記』『佐渡古実物語』)もある。
慶長一二年九月、備前祐白によって祖師堂が建立されたという。 この祖師堂はのちに取り壊され、そこに味方但馬によって戒壇塚が建立された。 慶長一七年九月、京都妙覚寺から栴檀(林)院日衍(-一六三七)が来島してから塚原の一三世を継ぎ、大檀那味方但馬守重(-一六二三)の援助を得て寺観も拡張整備された。 味方但馬は京都に邸を構えており、彼の菩提寺は妙覚寺であった。 慶長一九年に大久保石見守宗朝の入と共に五ヵ条の制礼を得、味方但馬の外護により境内の区画整備、祖師堂の移転再建、その他諸堂を造営して山門の面目を一新した。 日衍は相川に法泉寺、瑞仙寺、妙体寺を開いて塚原末とし、また両津にも妙法寺を開創した。
この頃、不受不施派の問題が喧しく論議されるようになり、本末関係もそれに伴って複雑化してきた。 日衍は不受不施派の本寺である妙覚寺を嫌って受派に転じたことから妙覚寺とのに紛争が生じた。 元和元年(一六一五)一〇月、日衍は京都妙覚寺との本末論争の結果勝訴し、ここに正教寺(根本寺)として独立の地位を確立したのである。 元和七年の梵鐘の銘には、「佐州塚原山根本寺常住」とあることから推して、根本寺の寺号公称の時期は、妙覚寺からの独立を契として元和元年以降に行われたとみてよいだろう。
こうした日衍のとった行動には、正寺を廃寺とすることにより妙覚寺との本末関係を断ち、根本寺と改称することによって一本山として独立させようというもくろみがあった。 しかし日衍の行動は諸寺院からの強い非難を受けた。 その結果、寛永三年(一六二六)に日衍は本寺妙覚寺に謝罪し、正教寺が妙覚寺の末寺である旨の誓約書を交し、円徳寺や本典寺の仲介斡旋によって一応の決着をみ、日衍の計画は失敗に終ったのである。
ところが寛永七年二月の身池対論以降、態はまた日衍にとって有利に展開してきた。 寛永一〇年一一月の「寛永年諸宗寺院本末寺帳上」によれば、正教寺は本寺妙覚寺に違背すると記されているが、この段階では、不受不施義の問題というよりも本寺からの独立が中心課題となっていたようである。
のち塚原一八世一院日周のより本末論争は再燃し、一九世日円(-一六八四)の本格化した。 寛文四年(一六六四)の頃にも京都妙覚寺の日悦は、佐渡奉行所宛に塚原山の本寺への随従を促す書状を送っている。 こうした本末論争も二〇世浄信院日行の、寛文一一年正月、身延、池上、中山による三山輪番所ということで遂に決着し、寺号も根本寺と改めて公称することになったのである。 この三山輪番の命も、幸いに阿仏房妙宣寺と共に特に一本寺たる体面を保ち、歴世永住となし、ただ三山輪番所として霊跡を擁護することとなった。
伽藍の造営についてみると、一三世日衍の代、寛永元年に千仏堂を建立、同三年には仁王門が落成した。 二〇世日行の代、寛文一二年に本堂を創建、延宝七年(一六七九)には庫裡を造営し、諸堂も修復した。 宝暦一一年(一七六一)に現在の祖師堂を再建。 四三世観中院日静の代に千仏堂を再建、諸堂を修復した。 こうして塚原山根本寺は、聖人佐渡最初の謫居地として今日に伝えられてきた。
因みに、塚原の場所については異論もあり、根本寺塚原説を否定して、塚原仙道説や塚原目黒町説を主張する研究者もいる。
《『日蓮聖人典』(雄山閣)「新潟」の項》

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