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塚原三昧堂(新潟県佐渡市)

つかはらさんまいどう #1262

塚原三昧堂(新潟県佐渡市)

つかはらさんまいどう

新潟県佐渡市新穂村の根本寺境内に所在。
日蓮聖人佐渡に配流された最初の謫居地。
聖人の居住した三昧堂跡(旧祖師堂跡)には、現在そこに戒壇塚の石塔が建立されている。
日蓮聖人の遺文中から塚原の光景を窺い知れるものとしては『種種御振舞御書』(定九七一頁)と『法蓮抄』(定九五三頁)、『妙法比丘尼御返』(定一五六三頁)等が挙げられる。
『種種御振舞御書』には「十月十日に依智を立って同十月二十八日に佐渡の国へ著きぬ。十一月一日に六郎左衛門が家のうしろみの家より塚原と申す山野の中に、洛陽の蓮台野のやうに死人を捨る所に一間四面なる堂の仏もなし。上はいたま(板間)あはず、四壁はあばらに、雪ふりつもりて消ゆる事なし。かゝる所に敷皮打ちしき蓑打ち着て夜を明かし日を暮らす。夜は雪雹雷電ひまなし、昼は日の光もさゝせ給はず、心細かるべきすまゐなり」とあり、また『法蓮抄』には「栖にはおばな(尾花)かるかや(苅萱)おひしげれる野中の御三昧ばらに、おちやぶれたる草堂の上は、雨もり壁は風もたまらぬ傍に」と述懐されている。
これらの遺文より想定し得る塚原の堂とは、本重連(-一二九六)の館に程近い一四面の荒屋同然の朽ち果てた吹きさらしの草堂であった。
その周辺は木や雑草が鬱蒼と生い茂り、終日日の目を見ない陰気な所で、人もほとんど寄り付かない荒地の中にあり、人の死骸捨て場となっていた。
日蓮聖人は文永八年(一二七一)一一月上旬より翌九年の四月上旬までの五ヵ月間をこの塚原三昧堂で過ごした。
このに塚原答と呼ばれる諸宗との法論(文永九年正月一六-一七日)があり、また人開顕の書ともいわれる大著『開目抄』(文永九年二月)を述作するなど、聖人の身辺は一日として安寧な日はなく、生命の危険に常にさらされていた。
しかし塚原問答を契機として、聖人の教えに帰依する者も現れた。
阿仏房夫妻、国府入道夫妻、中興入通夫妻等は、聖人を外護した在地の檀越として有名な人々である。
塚原三昧堂は後年、信者や僧による堂守が住したというが、無住の代が多かったようである。
文年間(一五五二年頃)に大泉日成(-一五六四)が霊跡の興隆に努め、天正年間(一五九〇年頃)には京都妙覚寺二〇世実成院日典(一五二八-九二)が、もと真言宗弘樹寺の管下にあった塚原の地に寺を建立し、一山の基礎を確立した。
《『遺文辞典』歴史篇「塚原」の項、『日蓮辞典』「塚原」の項、『日蓮聖人典』(雄山閣)「新潟」の項》

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