妙傳寺聖典個人版 新・電子聖典

日重(一如院)

にちじゅう #3148

日重(一如院)

にちじゅう

(一五四九-一六二三)
一如院と号す。
若狭(福井県)小浜の生れで、幼くして本寺に入り出家
長じて三光無師会の会下に参じ、大いに将来を嘱望されたという。
更に三井・奈良に遊学して、唯識・倶舎を修め、また臨済宗相国寺の西笑承兌(さいしようしようたい)には詩文の教授をうけ、竜安寺の月航和尚からは『周易』の相伝を受けた。
そして清原枝賢(しげかた)には『論語』『孝経』『職原抄』『日本書紀』神代巻および王代・年代の読様などを習ったといい、更に方生斎宗二からは『礼記』『古文真宝』『三体唐』の七言絶句等を聴したという。
学成るや京都本満寺第一二世に瑞世し、三大部じた。
正一九年(一五九一)本寺学道求方講院(のちに求法院檀林と称せられる)が開設されるや、招かれて多くの学徒を養成した。
三光無師会の仏心院日珖は折伏主義を排して摂受主義の教学にたったが、日重はこの系譜を受け継ぎ、大いに自己の教学を展開し、一致派学の原点ともみなされている。
文禄四年(一五九五)豊臣秀吉の千僧会の出・不出問題には、宗門護持の立場から日重は、不出仕を強調する妙覚寺日奥と争って勝ち、日蓮宗摂受主義に指向せしめ、江戸代における本宗宗風の基をつくった。
その学徳によって慶長四年(一五九九)飯高檀林に招請されたが固辞して日遠を赴かせ、更に同七年身延山晋董の招請にも応ぜず、日乾を晋ませ、自らは門下の養育と、学の復興に力を尽した。
晩年『見聞愚案記』を著し、元和九年八月六日、七五歳をもって寂す。
なお身延の歴世は日乾のあと日遠と相次いで瑞世するに及び、その功労を師日重に帰し、もって延山の列祖(二〇世)に配す。
またこの重・乾・遠の三師をもって「宗門中興の三師」と尊称されている。
もとより日重の学は、心院日珖の泉南教学の流れを汲むものであるが、また一面においては、その学系を本寺系の円明院日澄(一四四一-一五一〇)に継承している。
ここにおいて日重は偏狭なる独主義の教学を排して、広く教学の立場から宗学を樹立せんとした。
ち『見聞愚案記』に、学者の鑚仰次第を述べて、首題の元意、経旨、録内・録外の御書、次に天台三大部並に余の章疏、蔵経と定めているが、これは不受派の妙覚寺日奥が広学を排した態とは異なるものである。
また日奥の学が専ら廃権立実の相対判に立脚したのに対し、日重の学は開権顕実の絶対判に立脚して為実施権化導を重視した。
従ってまた日奥が折伏法体論を主張したのに対し、日重は折伏妙用論を説いた。
要するに日重の学は、主として不受派の日奥の学に対する修正にあったといえる。
この日重の門に日乾、日遠、日護、日達らが出て、その学は受け継がれていく。
次第に団も組織化され、関東・関西の諸山はほとんど重門に帰すところとなる。
それはまた重門の学風が、以後、日蓮団の主流となって展開したことも意味する。
なお日重の著作は多数あるが、その前半生においては、三大部の講述に力を尽し、その後半生に至って宗学の研鑽に努めている。
三大部の講述については、日遠の筆受した『法華玄義聞書』『法華文句随問記』『止観随聞記』として伝えられている。
法華経の釈義に関しては『妙経重談抄』八巻、『寿量品漸々用意抄』一巻などがあり、祖書に関しては、文禄四年に集録された『本満寺録外御書』二〇巻、『崑玉集』一〇巻、『崑玉集撮要』一巻、及び『祖書後懐中抄』一巻などがある。
祖書の解釈として『扶助妙義抄』一〇巻を始め、その他数種の祖書釈義もある。
見聞愚案記』二三巻は、日重の学を伺う上で最も重要な書といえる。
なお『過致悔集』二巻は、臨終の用意のため祖書その他より要文を抜粋したもの。
その他『法華神書』(三十番神抄)『梵網古迹抄聞書』『正直捨権抄』各一巻などがある。
執行海秀日蓮宗教学史』、日重上人集刊行会編『日重上人集』、宮崎英修『日蓮宗徒群像』、『日蓮辞典』『日本仏教人名辞典』『史大辞典』一一巻「日重」の項

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