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臨済宗

りんざいしゅう #4547

臨済宗

りんざいしゅう

臨済義玄(-八六九)を祖とする禅宗の一派。
臨済の法系は中唐以後諸宗が賑わなくなった中界でひとり栄え、宋代に石霜門下に黄龍(おうりゆう)・楊岐(ようき)の二派が分れ、曹洞・雲門両宗と対峙しつつ発展した。
日本へは明庵栄西(一一四一-一二一五)が黄龍派七世の虚庵懐敞に法を受け、建久二年(一一九一)帰して聖福寺(博多)、建仁寺(京都)を円・密・禅三宗兼学の道場としたことに始まる。
建久九年、比叡山からの非難に答えて栄西が著した『興禅護国論』三巻は、日本における禅宗独立の宣言書ともいうべきものである。
この栄西の法系を千光派という。
また俊芿(一一六六-一二二七)が楊岐派七世の蒙菴元聡に法を受け、建暦元年(一二一一)帰して泉涌寺に律に併せて禅法を弘通したのが楊岐派伝来の始である。
一般に日本臨済宗栄西を開祖とするが、栄西の伝来したのは黄龍の一派のみであり、多元的伝来の内容からも栄西一人によるものとはいえない。
鎌倉時代以後中国から伝来した禅の二四流の中、曹洞の三派を除くすべてが臨済系で、その中の二〇流は楊岐派で黄龍派は栄西の一流だけである。
栄西や聖一派の円爾弁円(一二〇二-八〇)が禅密兼修の傾向があったのに対し、蘭渓道隆(一二一三-七八)・兀庵普寧(一一九七-一二七六)・無学祖元(一二二六-八六)・一山一寧(一二四七-一三一七)らの中国僧が相次で宋朝風の純粋禅をもって来日し、鎌倉を中心に武社会に定着するのである。
鎌倉時代以後、その宗風は従来の貴族にあきたらなかった武士階級に支持され、幕府外護の下に発展を遂げ、室町代には五山十刹の制が確立され最盛期を迎えた。
文化的にも漢文学を中心とした五山文学の隆盛は、日本中世に大きな足跡を残した。
時代になると五山等の官寺派の臨済禅は没落し、代って大応国師(南浦紹明)・大燈国師(宗峰妙超)・関山国師(関山慧玄)の「応燈関」の門流によって臨済宗は形成され、今日に至っている。
江戸代にこの門流から白隠慧鶴(一六八五-一七六八)が出て臨済禅を名実ともに完成した。
白隠は看話禅(かんなぜん)を完成すると共に、仮名交りの著述を著して禅を説き、臨済禅の民衆化に成功した。
日本臨済宗の現在の宗風を決定した白隠は、臨済宗中興の祖とされる。
一般に臨済宗十四派というが、戦後興聖寺派が分立した。
現在、臨済宗として約六〇〇〇の寺院を有する。
諸派の名と派祖は次の通り。
(1)建仁寺派(明庵栄西)、(2)東福寺派(円爾弁円)、(3)建長寺派(蘭渓道隆)、(4)円覚寺派(無学祖元)、(5)南禅寺派(無関普門)、(6)大徳寺派(宗峰妙超)、(7)妙心寺派(関山慧玄)、(8)天龍寺派(夢窓疎石)、(9)永源寺派(寂室元光)、(10)相国寺派(開祖―夢窓疎石、派祖―春屋妙葩)、(11)向嶽寺派(抜隊得勝)、(12)方広寺派(無文元選)、(13)仏道寺派(愚中周及)、(14)泰寺派(慈雲妙意)。
臨済宗は「不立文字、教外別伝、直指人心、見性成仏」を宗旨とする。
ち経文によらず、坐禅を通して、さとりを得、自己の成仏を完成するということで、即身即と説く。
臨済禅は「公案禅」と呼ばれ、公案という公式化された課題を与えてこれに答えを出させ悟りへの手がかりとする。
その宗風は帰依の仏菩薩もなく、所依の経典もなく、伝道の教義もなく、ただ伝道の個人がであり法であり義である、とするところに特徴がある。
寺院内に釈尊や観音等を安置し、達磨らの開祖を祀るが、本来「殺殺祖(しいぶつしいそ)」といって、自力の自己霊絶対観を基本とする。
『般若心経』『金剛経』などの経典を読誦し『臨済録』『無門関』などの祖師の語録を尊重している。

 日蓮聖人は建長寺に住した道隆の臨済禅弘通によって、武士階級に臨済禅が流行しつつある時、禅宗を天魔の所為と批判し、社会の安泰を乱すものと厳しく弾劾している。
その要点は、教外別伝と称して仏の金言たる経典を捨てたこと、殺仏といって教主釈尊を蔑視すること、凡夫即仏という増上慢の罪などを挙げて、人心を迷わすの所説と批判した。
《『史大辞典』一四巻「臨済宗」の項、『岩波仏教辞典』「臨済宗」の項》

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