凡夫即仏
凡夫即仏
ぼんぶそくぶつ
凡夫がそのまま仏であること。
凡夫とは証理なく六道を輪廻する未断惑の凡庸浅識者をいう。
法華経迹門は衆生の理性を開顕する故に、煩悩具足の凡夫がそのまま仏と同体である。
しかしこれは凡夫が仏を具すという理具の法門であるゆえに理性において同体を論ずるにすぎない。
本門において仏の久遠実成が開顕されて初めて真の十界互具・百界千如・一念三千が究竟し仏界具九界の事具が成就する。
しかし凡夫と仏が無媒介に相即するのではなく、仏の慈悲を受領するには信が絶対条件となる。
日蓮聖人は『観心本尊抄』に「釈尊の因行果徳の二法は妙法蓮華経の五字に具足す。我等此の五字を受持すれば自然に彼の因果の功徳を譲り与えたまふ」(定七一一頁)と受持の信を説示されている。
五字の受持によって教主釈尊を己心の所具とすることが法華経の成仏であり、ここに「所化以て同体」の世界が実現するのである。
日本中古天台の本覚思想では無媒介に仏凡一体を論じ、ひいては凡夫本仏論を展開するにいたった。
聖人滅後の日蓮教団もまた、本覚思想の思潮の中で展開したため、教学の主流は本覚三身の理顕本に立脚した観心主義の色彩を帯びていった。
なかでも信心の当処に本仏を論ずる己身本尊論は自己を本仏の表現とし、教観止揚の本尊とは自己即本仏の境地であるとして仏と凡夫とは同体であるとするのである。
《上杉清文・末木文美士『現代世界と日蓮』(春秋社『シリーズ日蓮』五)》