妙傳寺聖典個人版 新・電子聖典

日親(久遠成院)

にっしん #3056

日親(久遠成院)

にっしん

(一四〇七-八八)
久遠成院と号す。
「なべかむり日親」として有名な室町・戦代の名僧。
応永一四年(一四〇七)に、上総埴谷(現・千葉県山武市埴谷)の、埴谷氏一族に生まれる。
幼少のときに、在地の支配者たる埴谷左近将監(法名法義)の養子となり、埴谷氏が帰依していた中山法華経寺(千葉県市川市)の日英の門に入った。
ところがもなく日英が亡くなったので、中山法華経寺の貫首日薩、さらに日暹に師し、宗門の将来を荷う指導者として嘱望されるに至った。
応永三四年に中山をたって上洛し、一条戻橋のたもとで説法することにより、伝道活動の第一歩を踏み出す。
やがて「九州の導師」として、肥前小城郡松尾(佐賀県小城市小城町松尾)の光勝寺へ下向し、ここで団の指導にあたることとなった。
ところが、日親は厳格な日蓮宗信仰を主張して、領主の千葉一族を厳しく批判したために、ついに破門されてここを去り、再び上洛した。永享九年(一四三七)のことである。
かれはここで『折状正義抄』を著して、九州の信者たちに送って自己の所信を明らかにした。
その翌年、将軍義に対して、日蓮聖人の教えを信奉し他宗の信仰を捨てることを直訴(これを諌暁と言う)したが、まったく省みられなかった。
そこで再び諌暁を試みようとして『立正治国論』を著し、これを浄書しているうちに捕われて牢に入れられた。
牢の中で日親はいろいろと激しい刑を加えられたが、その翌年に将軍が赤松満祐に謀殺されたので、恩赦によって出獄した。
こののち日親は、京都に本法寺を建立してここを本拠とし、全国各地を廻って伝道につとめた。
ところがかれの主張は聖人えを守ることを厳しく要求し、他宗を激しく攻撃するものであったから、行く先々で迫害を蒙った。
寛正元年(一四六〇)には、幕府はこのような伝道活動を続ける日親を罰しようとして、肥前の千葉氏にかれを伴って上洛することを命じた。
ところがその命令もなかなか聞かれず、日親が千葉氏に伴なわれて京都に着いたのは、二年後の寛正三年も暮れのことであった。
こうしてかれは再び牢に入れられたが、その翌年八月には臨の大赦が行なわれて、自由の身となることができた。
これからは日親自ら伝道の旅に赴くことは少なく、京都本法寺を本拠に団の整備を積極的に進めた。
自分を破門した中山法華経寺日有に対する批判を、養父に書き送った『埴谷抄』と、日蓮聖人からの正統を主張する『伝燈抄』を著作したのは、文明二年(一四七〇)のことである。
さらに曼荼羅本尊を書写したり、義書を筆写したものを弟子たちに与えるなどして、一門の体系を整えていった。
さらに文明一六年には『本法寺法式』を定めて、教団の秩序を固め、長享元年(一四八七)には本法寺の拡張を発願して『本法寺縁起』を著わして勧進をはじめた。
ところがその翌年九月に病にかかり、八二歳の生涯を終えたのである。
次に日親の思想について考えてみよう。
日親の最後の著述となった『本法寺縁起』において、かれは法難に明け暮れた六〇年にあまる伝道生活を省みている。
京都・鎌倉をはじめ東西南北を走りまわり、三〇有余の寺院を建立し、しばしば将軍や守護に対して諌暁を行なった。
このためにはげしい法難をたびたび蒙ったが、これを身命をもって乗り越えて来たことを誇っている。
日親が一生にわたって、このように壮烈な伝道活動を展開したのは、かれ自らが体験によって聖人の宗教を受け止めようとしたことを物語っている。
したがってかれの思想の根底には、このような実践的宗教念が常に横たわっていたことがわかる。
例えば、日親が日蓮聖人からの正統を主張する場合、かけいの水をつぎつぎと汲み渡すような血脈の論だけでは納得しなかった。
それは日蓮聖人の行動を再体することによって、はじめて充足されるものであった。
再体されるべき日蓮聖人のもっとも重要な行動は、支配権力者に対する諌暁である。
日親が『立正治国論』を将軍足利義教に呈上しようとしたことにみられるように、他宗の信仰はすべて打ち捨てて日蓮聖人えだけを信奉せよと、命がけで進言することなのである。
かれがこの試みに失敗して捕えられ、目にあまる刑を加えられても、それこそが日蓮聖人の法難を再体することとして悦び身にあまることなのであり、これによって正統意識はいやが上にも高まるのである。
日親はこのように日蓮聖人の徹底した法華信仰を諌暁という行動で外に打ち出した。
と同に、宗門の動向がはたして聖人の意図したものであるかどうかを、厳しく問い直したのである。
日親が「九州の導師」として小城の光勝寺へ赴いた時、その末寺に法華経無縁の仏菩薩を安置したことを咎め、これを取り除かせたりした。
かれのこのように徹底した行動がやがて日親を破門に追いこみ、日親と中山法華経寺との対決はついに解決することはなかったのである。
日親が宗門の内外に向かって展開した宗教運動は、聖人の主張する仏法至上主義を、行動の中で受けとめ、発展・深化させることであった。
そしてこれをいかに実現するかによって自分の正統の論を完成していこうとしたのである。
日親のことを「なべかむり日親」とよく呼ばれる。
かれが幕府に捕えられて牢につながれた、まっ赤に焼けたなべを頭からかぶせられたという伝説によって、こう名づけられたのである。
日親の没後、かれの経した法難は信者たちのに語り伝えられ、やがて幕吏から受けた法難としてまとめられていく。
江戸代になって元禄のころ『日親上人徳行記』が現れ、ここに水難・火難を含む七難が、幕吏の加えた刑として整った形で述べられている。
このうちでもっとも有名なのが、なべかむりの法難なのである。
こうして日親の法難が世に広く喧伝されると、その伝記に基いて霊跡寺院が生まれ、留錫の地や法難の地など五〇箇寺あまりが今日に伝わっている。
さらに『日親上人徳行図』と言われる、法難を一幅に描きこんだ軸物が寺から発行され、日親信仰は都市に広まっていった。
特に堺の本成寺に安置する日親の木像は「正御影」と呼ばれて、今日も多くの信者を果めている。
《宮崎英修『日蓮宗の人びと』、『遺文辞典』歴史篇「日親」の項、『日蓮辞典』『日本仏教人名辞典』『史大辞典』一一巻「日親」の項》
(中尾堯)

← 事典トップ