日持(甲斐公・蓮華阿闍梨)
日持(甲斐公・蓮華阿闍梨)
にちじ
(一二五〇-)
日蓮聖人の本弟子六老僧の一人。
甲斐公・蓮華阿闍梨と号す。静岡貞松蓮永寺開山。わが国海外伝道の始祖として名高い。
駿河国(静岡県)庵原郡(現・静岡市)松野六郎左衛門の第二子として生まれ、幼名を松千代という。
幼少より学を志し、和漢の典籍を読破し、文章・和歌にその才を発揮した。
一説によると七歳にして同国天台宗岩本実相寺厳誉について出家し、天台の教観の習得に励んだという。
また一説には弘長三年(一二六三)一四歳で松野の東対岸にある実相寺に入り、寺僧の中でも俊秀の誉高い甲斐公(後の日興)の弟子となって能登房と称したという。
更に異説もあり、最初に比叡山に登って後に岩本に入ったともいわれる。
始め日持は日興の弟子分であって、日興に導びかれて聖人の門に入ったことは確かなことであるが、日興(一二四六-一三三三)は日持より四歳年長であった。
日興の入門は普通、日蓮聖人の岩本入蔵時(一二五八)とされ、弘長年間(一二六一-六四)はすでに聖人の弟子として活躍していた。
特に日興は幼少時代修学していた蒲原荘の天台宗寺院四十九院に出入りし、そこの寺僧達に聖人の教えを伝えていたのである。
この布教が成果をあげ、後には寺側と日興が形成した日蓮一党とが対立し、訴訟にまで激化していく。
その時提出した『四十九院申状』には「駿河の国蒲原の庄四十九院の供僧等謹んで申す」との書き出しで「日興並に日持・承賢・賢秀等」とあり、日持の署名もある。
この資料や興門の所伝からみると、日持は蒲原四十九院で習学中日興の導きにあって入信したとみられる。
もちろん実相寺と四十九院は隣接した同じ天台宗寺院で密接な交流があったことはまちがいない。
日持の出家・入信の時期について所伝を総合して推測すると、七歳頃出家し、一四―五歳頃岩本並びに四十九院で勉学中、先輩の日興の伝道活動にあい、日興に兄事し、日興から聖人の教えを学びながら次第に日蓮の一党として成長していったのであろう。
文永七年(一二七〇)二一歳の時、日興に連れられ松葉谷の聖人に面奉し、日持の名を賜わり日興の元の公名甲斐公を譲られ、聖人に随身したと思われる。
ここで問題となるのは古来から日持代作、聖人印可と伝えられる『持妙法華問答鈔』の著作年月日である。
『昭和定本』にも弘長三年に系年されているが、日持一四歳でこの書を代作したとは考えにくい。異説として建治二年、弘安三年説の方が事実に近いと思われる。
聖人臨終にさいして定められた六老僧の中では最も法臈は浅いが、聖人は日持の並々ならぬ資質と学才を見抜いて本弟子のうちに加えたのであろう。
日持は佐渡・身延と聖人に従い、一方出身の駿河において布教活動に当った。特に日興と共に実相寺・四十九院・滝泉寺を拠点として駿河教団形成に働いていた。このため旧仏教勢力側と衝突し、熱原法難を体験するのである。
弘安三年(一二八〇)、郷里に実家松野殿の外護によって堂宇を建立した。弘安六年にはこの堂を永精寺としている。
後の蓮永寺の基である。
弘安五年、聖人入滅時、日持は三三歳であった。
馬・小袖・手鉾が御遺物としてわけられ、毎年五月が身延輪番の月と定められ、本応寺(今の窪之坊)を開いた。
正応元年(一二八八)聖人第七回忌に際し、日持は侍従公日浄と共に願主となって池上本門寺に聖人の木像を造立した。
現在重要文化財に指定されている池上の御影像がこれである。
その後永仁二年(一二九四)の聖人の十三回忌は松野の自坊において九月十三日に法要を営み、正当御命日には身延の祖廟に詣で、海外伝道の覚悟を披瀝して別れを告げ、年明けて永仁三年正月朔日、国内の伝道は他の高僧に任せ、自らは聖人の宿願であった本化の妙法を漢土月氏へ帰す使命にあたらんと、門下を集め決意を表明、後事を高弟日教にゆだねて単身北をめざして故郷をあとにした。
年四六歳である。
「門人之ニ随ント欲ス。師ノ曰ク、我異国ヲ救済シ、身命ヲ仏祖ニ奉ル。設ヒ、江魚ノ腹中ニ葬ラルモ、我何ゾ之ヲ辞センヤ。尓ノ堪ル所ニアラズ。行若シ一毫ノ浮心ニ亘テハ我ガ願成ゼズト云テ、衣ヲ振テ去ル。門人泣テ別ル」(『本化別頭仏祖統紀』)。日持のこの壮図は一閻浮提広宣流布を悲願とする本化門徒の不惜身命の勇猛心の典型的なものであろう。
これ以後の化跡は詳らかではないが、道を奥州にとり蝦夷(北海道)に渡って更に大陸に渡ったことが伝えられている。
青森県には黒石の法嶺院と青森市の蓮華寺に足跡が残り、蝦夷には函館石崎の妙応寺、椴法華(とどほつけ)村妙顕寺、松前法華寺等各地に日持の遺跡が伝えられている。
この後大陸に渡り満州蒙古にもその遺跡があるという。
昭和四六年(一九七一)前島信次氏が『日持上人の大陸渡航について』という書を著し、岩田秀則氏所蔵の中国宣化(せんか)出土品を日持の遺品と断定し、大陸渡航の資料として発表、大きな反響をよんだ。
ただし、その後、宣化出土品を日持に結びつけることに大きな疑問が提せられ、その信憑性については弱まっている。
しかし日持の海外伝道そのものが否定されているわけではない。
むしろその事実より鮮明な証拠を探ろうとする傾向にあるのである。
日持の化寂地、没年はよって不明である。
宗門では松野を出発した永仁三年正月一日を命日としてその勲功をたたえている。
なお、宗門では一天四海皆帰妙法の願行を継承する第二第三の日持が待ちのぞまれる。
《『日蓮教団全史』上、影山堯雄『仏教海外伝道の始祖日持上人伝』、高橋智遍『日持上人研究』、『遺文辞典』歴史篇「日持」の項、『昭和新修』別巻「甲斐公日持」の項、『日蓮聖人大事典』「日蓮聖人と六老僧」の項、『日興門流上代事典』「日持(蓮華阿闍梨・甲斐公)」の項、『日蓮辞典』『日本仏教人名辞典』『国史大辞典』一一巻「日持」の項》