日受(永昌院)
日受(永昌院)
にちじゅ
(一六九二-一七七六)
字は立円、永昌院と号す、また合掌阿闍梨と称す。
江戸の人、幼少にて出家し、下総宮谷檀林に学び、元文二年(一七三七)九月、四六歳にして玄講となり、同五年五月、五九世の化主。
それよりさき下総用草真福寺、江戸浅草常林寺、品川本光寺等を歴住。
寛保二年(一七四二)五一歳四月、日什門流本山京都妙満寺の法灯をついだ。
安永五年七月二二日、八五歳をもって寂し、品川本光寺に葬る。
日受著書多く、寿量顕本・応身為正・仏界縁起の無作事一念三千義を中心に、京都寂光寺の本昌日達(一六九一―一七七二)と共に、什門教学が日信・日乗ののちふるわなかったのを、その復興を計り、什門教学の組織に力を尽した。
この日受・日達・日乗の三人は什門教学の大成者といわれている。
著書に『本迹異論傍観書』五巻、『本迹自鏡篇』『同補闕』『如実事観録』各二巻、『當体義抄自鏡篇』『十法界抄自鏡篇』『如実我此土安穏記』『略仏界縁起草』『教化返答書』『答書疑難抄弁釈』『什師諷誦文釈』各一巻等あり。
この中、『本迹自鏡篇』と『如実事観録』はその代表的なものである。
『本迹自鏡篇』は上下二巻、並びに下巻余之一と補闕上下より成っている。
本篇は宝暦一〇年(一七六〇)五月の作であるが、途中眼疾のため稿を下巻の途中にて中止し、同一二年に続行したものが下巻余之一である。
補闕二巻は明和六年(一七六九)七月の作である。
本書の内容は「抑モ此ノ編ノ中ニ大段分テ三段ト為ス第一ニハ日陣門徒ヲ駁議シ、第二ニハ一致者流ヲ駁議シ、第三ニハ台當家ノ同異ヲ辨明ス(略)」とあるように日陣門徒・一致派等を誹議している。
つまり、陣門派批判については日陣・日求・日相らの教学並に陣門所伝の史実・述作書等について誹議しており、一致派批判については、本圀寺日達・啓蒙日講等の教学を誹議し、特に日達の『本迹雪謗』を論破している。
なお興門教学に対する批判も加えられている。
また台当の異目を弁明している。
『如実事観録』二巻は明和七年一一月の作で、序にて台当観心の相違を論じ、三身即一の応身顕本を説き、事理二観を弁じている。
上下二巻において観如日透の当家事観の三十義を逐条的に論破している。
日受が宮谷に在った頃、什門より一致派に転じた観如日透が関東に在って、顕本義・本尊義・事観義等を著し、一致教学を鼓吹し、また宮谷においては陣門日求その後日相が陣門教学の確立を計っており、また一方本圀寺日達が『本迹雪謗』を著し、一致教学を盛りあげ、勝劣各派の教学を論じており、この教学界の情勢が什門教学を刺激するところ少なくなかった。
更にまた什門教学においても、解決すべき問題が多く残されていた。
つまり元来什門の教学は一致勝劣両派に対して、本迹勝劣・一部修行を主張して折衷的立場にあった。
即ち一致派に対しては法体の勝劣を主張し、勝劣派に対しては行門上の一致を説いて、いわゆる中道派をもって任じていたのである。
また日什教学相承については、他門不共の直授経巻相承を誇示して、他門を目して外用相承と見做し、自門の内證相承を主張していた。
そのため却って一致勝劣両派から二途不攝と称せられ、また日什の帰宗については諸門流より傍系視された観があった。
ここにおいてかかる教学上の課題に応え、一致勝劣両派に対して什門の立場を明かにし、什門教学の刷新を計り、近代什門教学の基盤を確立せねばならなかった。これをなしたのが日受の教学であった。
この主たる教学は祖書を文献学的に取扱い、真偽を考証し、この立場から録内基準説をとり、録内御書の中でも特に『開目抄』中心説を提唱している。
即ち従来一般に用いられていた『本尊抄』中心説に対して、『開目抄』中心説を提唱したのである。
これによって応身為体・三身為得の仏身論を説き、殊に応身の慈悲を三千の体となし、相続事常住による、事三千因果具足の一大円仏を明し、仏界縁起を説いて仏の本願力を強調した。
また修行論においては信心正因、唱題助行を力説し、信唱即事観を説いて事観助行説を斥け、事観正行、唱題助行を説いた。
成仏論においては他力成仏、次生修得の霊山成仏説を述べたのである。
《執行海秀『日蓮宗教学史』、望月歓厚『日蓮宗学説史』、『宗全』六巻、『日本仏教人名辞典』「日受」の項》