守塔輪番の制
守塔輪番の制
しゅとうりんばんのせい
守塔とは、日蓮聖人の滅後、身延山久遠寺に廟所が設けられ、墓石が建立されたが、この廟塔を守って法味を供え、香花燈燭をたやさず、護持していく制度。
輪番とは、その役を本弟子六老僧を始めとして主な弟子たちが交代輪番に務めたことをいう。
最初にこの守塔輪番の制が議せられたのは、日蓮聖人が入滅したのち、百ヵ日忌の営まれた弘安六年(一二八三)正月二三日であったとされる。
最初は聖人の遺言によって、墓所を身延山に定め、六老僧が輪番制をとることになったが、各地区における布教の統帥者となっている者が二ヵ月間を身延山に篭って守塔することは、はなはだ困難であった。
従って、他の諸師をも加え、月々に当番を割り振っていった。
池上本門寺に所蔵されている日興執筆の『身延山久遠寺番帳事』によると、次のごとくである。
「正月弁阿闍梨、二月大国阿闍梨、三月越前公・淡路公、四月伊与公、五月蓮華房、六月下野公・越後公、七月伊賀公・筑前公、八月治部公・和泉公、九月白蓮房、十月佐土公、十一月但馬公・卿公、十二月寂日房・丹波公」とあって、一八人の名前が記されており「右番帳の次第を守り、懈怠なく勤仕すべきの状、件の如し「と結んであって、日持・日興・日朗・日昭の四名が連署している。
この池上所蔵本の他にも、日朝の『化導記』や日奠の『身延記』等に見られるが、人名に多少の相違がある。
また西山本門寺の所蔵本には「墓所可レ 守番帳事」となっているが、その当時の通念で、墓所は御廟所であり、同時に久遠寺そのものを指すのであって、墓所も久遠寺も異るものではなかった。
『日蓮教団全史』上には、この間の事情について次のように記されている。
後世富士門流では、「本因妙抄」と「百六箇相承」という「両巻血脈」と、身延相承・池上相承といわれる「二筒相承」が、聖人に仮託されて作られ、日興をもって身延の貫首と定められたと主張するようになる。
すると、門流の一部では日興以外の五老僧は、墓所のみの守護奉仕者として止まるのであると主張するようになった。
これは墓所と久遠寺とを全く区別して、異るものと考えたために生じたものである。
日興が「身延山久遠寺番帳事」と書いたのも、「墓所可守番帳」と記したのも、寺と墓所を同一のものとみなしていたからであるといえる。
ところで、この守塔輪番の制は、日蓮聖人の滅後、第一周忌すぎまでは前記の一八名によって実施されていったようである。
即ち、一月の弁阿闍梨は六老僧の一人日昭のことで、二月の大国阿闍梨は日朗のことである。
三月の越前公は日興の弟子で、淡路公日賢は日位の弟子である。
四月の伊与公は日頂のことであり、五月の蓮華房は日持、六月の越後公日弁と下野公日秀は、共に日興の弟子である。
七月の伊賀公については、中山の帥公日高を当る説と伊賀阿闍梨日世を当る説とがあるが、共に別人であるといわれている。
また筑前公については、『本化別頭仏祖統紀』によると日合であるとしているが、日興の弟子に筑前公という人がいたので、おそらくその人のことであろうと考えられる。
八月の治部公日位は、日持の門下であり駿河に在った。
和泉公日法は日弁の門下で武蔵に居た。
そして九月は白蓮房日興であるが、西山本には白蓮阿闍梨と阿闍梨号が、五月の蓮華阿闍梨と共に付けられている。
一〇月はまた日興の門下たる卿公日目と、但馬公の両者である。
但馬公については、日実であろうといわれている。
一一月は佐渡公日向である。
しかし西山本と池上本とでは、この一〇月と一一月が入れ替りになっており、池上本では一〇月に佐渡公を配しているが、西山本では一一月になっている。
この事については、『日蓮教団全史』(上)によると、弘安六年正月に池上本の番帳が作られた際、六人の中の日向と日頂は他所へ出向いていて出席していなかったので、一応順序を定めたが、後日に西山本が書かれたとき、池上本の順序をもう一度勘案して訂正されたものとしている。
つまり池上本は当初の草案であり、この案文をもとに再考して書かれたものが西山本であろうとしている。
その理由として、当番者を簡単に房号で書かれている池上本に対し、西山本には正式な阿闍梨を用いたり、六月・八月・一二月の二名宛になっている月の当番者順位が、共に法臈の次第によって改訂されている点を挙げている。
例えば一二月は、池上本では寂日房・丹波公となっているが、西山本では丹波公が先で、寂日房が後に列せられている。
公名を房号より上位にしてある点も注目すべきである。
丹波公日秀は上総に在り、寂日房日華は日興の門下で甲斐に在った。
以上の一二名の守塔輪番者の中で、越前公・淡路公・越後公・下野公・治部公・和泉公・卿公・寂日房の八名、更に筑前公を加える九名は、共に日興の門下かあるいはその系脈に属している者であり、半数が甲斐・駿河に在る人々であったことがわかる。
これは身延に近く在住している者の方が当番として務めるのに便利であったからでもあろう。
日興も他の長老と相談した結果、在所の地理的関係から、最も近くに在ったので主として輪番の責任に当ろうとしたものと考えられる。
こうして日蓮聖人の第一周忌頃までは、守塔輪番が順調に進められていった。
ところが聖人の三回忌の頃になると、幕府の弾圧が、日蓮門下、特に鎌倉在住の諸師とその系脈に下され、輪番による祖廟勤仕が思うように行えなくなっていった。
三回忌に当る弘安七年一〇月一八日、日興が美作房へ宛た書簡によれば、一大事(弾圧)が起っていたので、三回忌の法要へも参加する者が、少なくなってしまったことを嘆いている。
この点から見ても、守塔輪番の制は次第にむずかしくなり、早くも三回忌前に挫折せざるをえなくなってしまっていたようである。
そこで、日興が地理的な関係から、一応常住して守塔の任に当るべく心掛けることになった。
日興の任は弘安七年の末頃に始まり翌八年の中頃に一端下山し、同年の末頃には山に住むことになった模様である。
かくして、守塔輪番の制は早くも崩れ始め、日興が専任の守塔を務めることになりつつある時、日向が登山して来て学頭職についた。
しかし間もなく、日興は波木井実長との折合いが悪くなり、遂に正応元年(一二八八)一二月初旬、身延を下り富士へ移ったのである。
このため日向が身延山の守塔沙門となり、専住の守塔者となるに至った。
なお今日もこの守塔輪番の制にならって、全国各地の寺院住職が、身延山へ檀信徒を率いて、毎日交代で登り、祖廟輪番奉仕の制が施かれ、盛大に行われている。
《『身延山史』、立正大学日蓮教学研究所編『日蓮教団全史』上》(上田本昌)