妙傳寺聖典個人版 新・電子聖典

北海道開教

ほっかいどうかいきょう #904

北海道開教

ほっかいどうかいきょう

永仁四年(一二九六)六老日持、蝦夷(北海道)石崎妙応寺着船に始まる。
爾来白約三〇〇年、享禄元年(一五二八)上ノ(群馬県)に法華堂草、承応四年(一六五五)松前に移転して法華寺となり、江差法華寺、江良感応院、正徳四年(一七一四)凾館実行寺、安政年代(一八五四-五九)には森一妙寺、石狩金龍寺、元村本龍寺、小樽妙龍寺、厚田厚龍寺創。
蝦夷代の開拠点となったが間もなく幕をとじて北海道代に入る。
明治二年(一八六九)蝦夷を改めて北海道と呼称。
直ちに本府を札幌におく。
同八年政府は札幌付近住民の定着と拓殖計画を重点目標として、各所に屯田兵をおくことになったが、札幌経王寺、日登寺に次いで伊達妙栄寺、同一〇年岩内蓮華寺、同一六年日薩発願による凾館常住寺、古平正隆寺の両寺(最初五ヵ寺建立の発意なりしが不完)、同一九年室蘭妙伝寺等を創した。
これらの拠点とは別に、鰊漁場が日本海沿岸を北上するにつれて、自ら線も瀬棚、岩内、積丹、余市、小樽、石狩、増毛、留萌、苫前、塩及び利尻、礼文に延びると共に、太平洋岸は定期航路の進展に伴い、白老より日高沿岸を経て十勝原野、釧路、厚岸、根室に達した。
内陸部では道路の開さく、鉄道敷設によって開拓も進み、屯田兵の強化と相まって同一九年より同三二年、輪西、厚岸、深川、永山、当麻、湧別、北見、剣渕、士別方面の開発を促した。
また岩見沢、幌内を始め知炭田の採炭を盛んにし、札幌、旭川の中心道路の延長として北見、網走地方の交通を容易にし、オホーツク海を経由して樺太との交流点稚内の殷盛をもたらした。
これらの地域にはそれぞれ大小の差はあれ本宗寺院がもれなく配置され、同三〇年頃には旭川妙法寺、稚内大慶寺、釧路法華寺、根室常惺寺、網走大盛寺等、有力寺院の出現をみ、更にその末寺説教所等彼此相倚り風の発揚に努めた。
総じて本道の開の特色について三要目を挙げることが出来る。
(一)地場産の開発と政府の拓殖行政、移住政策に追従したことで、概ね前述の如くである。
(二)明治初期の僧侶に定着が薄く、他宗派に一歩立遅れが目立ったことである。
初期から中期にかけて著名布教師の往来はかなりの数にのぼった。
特に津川日済、中野文靚、久保田日遙、守本文静、河瀬智宏、松森霊運、本間海解、末崎快存らであるが、何れも短期間で退道し、他の住僧等も寒気、風土、生活異習を嫌う者多く、終身布教の見込みなきを憂えて、同八年管長日薩、北海道布教計画を政府に献策ししかも、宗内に反省を求めた。
これに呼応して同一五年巡中の身延日鑑また強調の結果その効果が徐々に現れ遅ればせながら定着者の漸増がみられるようになった。
次いで同三三年には自主的規約を設けて、布教体制を整え、布教監、録司等の宗制に基づき線の強化に努めた。
(三)布教の特殊である。
者は不漁と海難故、不毛の原始林に挑む農林業者は猛獣の危害を始め冷害、洪水等の自然災害、採炭者は落盤、爆発故の被害は想像を絶するものあり、このため救いを本宗独特の加持祈祷に求めたのは当然であろう。
アイヌ人の帰依者や他教徒の改宗者もにわかに増加し、順次奥地の教田をおし広げ、加持祈祷が言説布教に先行して、抜群の効果を挙げるに至ったのはいうまでもない。
その余勢をかつて前進を続け、大正七年(一九一八)開道五〇周年を記念して大博覧会の開催に際して、本宗は宗会の協讃を得て、北海道布教協会は一斉に立上り、東京布教師会の応援を得て、僧俗合同の大挙伝道(のちの護法運動)を五〇日間に亘って実施するや、法主日慈、村雲尼公らによる連日親教に感激する者枚挙にいとまなく一層躍進の契となった。
やがて昭和の激動期を迎えて増々伸張のを加え、多数の教会、説教所は寺号公称の宿願を果し、寺院の新設も逐年増加の一途をたどり、三派合同と相まって風全くゆるぎないものとなった。
推進の人師としては幕末の松尾日隆、明治初期では松井寛義、貫名日軌、中期では石沢日富、中村雪堂、松森霊運、後期における豊永日良、望月日謙、柴山日光、大石養淳。
大正期に入っては松井日量、広瀬啓宣、山本顕秀、石田長陽、足立泰隆、田中耀運、沼上光学、中條良啓、釋英、加世本顗らが著名である。
既にして宗制による北海道開教地行政の制は廃止されて久しく、自力による線が確立した今日、先人開の辛苦を忘れることなく、僧俗一体、北方弘通の意欲に燃えている。
《『日蓮宗北海道大鑑』『北海道百年』、『北海道史』、『昔話北海道』(屯田兵)、『松浦武四郎蝦夷日誌』、『新居日薩』》

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