日寛(堅樹院)
日寛(堅樹院)
にちかん
(一六六五-一七二六)
字は覚真、堅樹院と号す。大弐阿闍梨と称した。
寛文五年八月八日、群馬県館林、伊藤氏の家に生まる。
酒井雅楽頭の家従にて、天和三年(一六八三)の夏に、江戸に在りて、下谷常在寺日精の講を聞いて出家の誓願を志し、同年一二月に日精の後を受けて常在寺にあった日永に従って得度した。時に日寛の一九歳の冬である(日精は同年没)。
その後元禄二年(一六八九)二五歳の春に細草に学び、後に化主に晋んだが、正徳二年(一七一二)の夏、日永の招きによって、学頭蓮蔵坊に住して御書を講じた。
享保三年(一七一八)五四歳で大石寺二六世の法灯を継承し、在山三年にして、日養に譲ったが幾ばくもなくして日養が示寂したため、再住法灯継承をし、在山四年に及びその間の享保一〇年『六巻抄』を著し、学頭日詳に授けている。
同一一年七月病気のため再起する事の能ざるを覚知し、後事を学頭日詳に托し八月一九日安祥として遷化す。世寿六二歳。
著書には御書の註釈に『観心本尊抄聞書』『観心本尊抄文段』『安国論愚記』『開目抄愚記』『撰時抄愚記』『報恩抄愚記』『取要抄文段』等があり、宗義を論じたものに『六巻抄』(三重秘伝抄・文底秘沈抄・依義判文抄・末法相応抄・当流行事抄・当家三衣抄)がある。
その外『本迹問答抄』『臨終用心抄』、天台学関係の『玄義』『文句』『集解』等の草鶏記がある。
日寛の生涯よりその教学思想を見るならば、元禄年間の檀林時代は、天台学関係の著作に従事し、在山時代の正徳・享保の間に、祖書の講述と註釈に力を注ぎ、晩年『六巻抄』を著し日寛教学を完成している。
ことに日寛の教学は『六巻抄』を始め『観心本尊抄文段』『観心本尊抄聞書』等によって知る事が出来、『文段』は門下の文啓日忠の筆受した『聞書』を自ら整理したといわれる。
ことに『六巻抄』の三重秘伝抄は、権実判・本迹判・種脱判の教判(総三段、別三段、迹門熟益三段、本門脱益三段、文底下種三段)を論じ、文底秘沈抄は寿量文底秘沈の事の一念三千を開いて三大秘法とし、その法体を説き、依義判文抄は三大秘法の文拠と五義判を説き、末法相応抄は像末相対を判じ、一部読不読・仏像造立の用不用を論じ、当流行事抄は像末相対によって詮顕された正行助行の法式を論じ、当家三依抄は僧形の三衣を論じ大石寺の正当嫡流を論じ、同門の末組織・体系化されていなかった教判・教理・行法・行相・儀式を大成している。
これは外には一致派の啓蒙日講、一音日暁の教学、勝劣の隆門教学、内には要法寺広蔵日辰教学に対して、石山教学の大成に努力した結果であり、富士興門の先師、ことに日精の資料を基として日要・日我・日教・日辰らの教学を発展整束し、日永の意を継承したものである。
日寛の教学は釈尊所説の法華経を在世脱益の教として、日蓮聖人の御遺文を末法下種の法華経とする根本的教学思想の背景があり、それが今日の大石寺教学の根幹となっている。
いわゆる「久遠元初自受用報身の再誕末法下種の主師親、本因妙の教主、大慈大悲の南無日蓮大聖人」(『宗全』「日蓮正宗部」二六)を人本尊とする本因妙下種益の人法体一を説き、本尊を信じて唱える題目、信行具足の事の題目を説き、閻浮提第一の事の戒壇の実現を富士山とし、未だ実現しない時の戒壇を義としている。
いわゆる分・満の戒壇思想であり、種脱の法体を相対し、種勝脱劣の法門を説くところは、一致派の像末相対勝劣を論じ、種脱一双、法体の勝劣を問題としない教学と最も異る解釈の結論を導き出している。
この日寛教学の大成により、富士教学の主流は大石寺となり、尊門の要山・保田等の他山を圧し今日迄至っている。
現在日蓮宗教学では、法華経の教主釈尊の仏教を継承する事を骨子とし、仏法僧の別頭三宝を仏を教主釈尊、法を題目、僧を上行応現日蓮聖人とする事に対して、大石寺教学では仏を本因妙教主釈尊即是末法出現の日蓮聖人、法を題目、僧を末法の大導師白蓮日興上人としている異なりを見る。
今日の大石寺教学の骨子は日寛教学の継承といっても過言ではない。
《執行海秀『日蓮宗教学史』、望月歓厚『日蓮宗学説史』、『日本仏教人名辞典』「日寛」の項》