新尼御前御返事(一六四)
新尼御前御返事(一六四)
にいあまごぜごへんじ
日蓮聖人が文永一二年(一二七五)二月一六日、五四歳のとき身延山から、安房東条付近の領家の嫁尼に送られた御書。
『新尼御前御返事』と称され、また『与東条新尼書』とも呼ばれている。
真蹟はかつて身延山に保存されていたことが、心性院日遠・隆源院日筵・遠沾院日亨の目録によってわかるが現在はわずか二行断片を愛知県長福寺に蔵するのみ。
行学院日朝の写本もあり、『録外御書』第一二巻にも収録されている。
新尼の生没年は不明。
聖人の生家は領家から特に親しく恩恵も受けていたようである。
『清澄寺大衆中』によると、「日蓮が父母等に恩をかほらせたる人なれば、いかにしても後生をたすけたてまつらんとこそいのり候へ」とあり、更に本書には「日蓮が重恩の人なれば扶けたてまつらんために」とあることから見てもうなずける。
この領家の主人(一説には名越朝時)が世を去ったので、夫人は尼となり「領家の後家尼」といわれた。
後にその子(一説には朝時の一子公時)に妻を迎えたが、この子がまた若くして世を去ったために、嫁も後家尼となり、領家の尼のことを大尼、子の嫁のことを新尼と呼んだのである。
曽って地頭の東条左衛門景信は悪行を重ね、清澄・二間の二ヵ寺を自分の配下にして、念仏者の寺にしようとしたが、聖人はこれに敵対して領家の味方となり、ついに景信の所行を止めさせたのである。
こうしたこと等から領家は法華信仰に入って行ったが、大尼の方はなかなか信仰に徹し切れず、竜口法難以後ついに退転してしまった。「領家の尼ごぜんは女人なり、愚癡なれば人々のいひをど(嚇)せばさこそとましまし候らめ。されども恩をしらぬ人となりて、後生に悪道に堕ちさせ給はん事こそ、不便に候へ」(定一一三五頁)とあり、更に本書には「領家はいつわりをろかにて或時は信じ、或時はやぶる不定なりしが、日蓮御勘気を蒙りし時すでに法華経をすて給ひき」(定八六八-九頁)と記されていることからわかるごとく、大尼の信仰にはぐらつきが多かった。
しかし新尼の方は信仰心も厚く「さどの国と申し、此国(身延)と申し、度々の御志ありて、たゆむけしきはみへさせ給はねば」とある通り、聖人に対しても帰依の念が深かったことがわかる。
次に新尼書の内容について見ると、まず新尼からあまのり(海苔)一袋と、大尼からも海苔を送られて来たが、かたじけなく受取った旨の御礼が記されており、続いて身延山の位置・地形を述べている。
即ち、身延を中心として東西南北の状況、四山と富士川の様子を紹介している。
昔、竹林の七賢人が世をのがれて隠棲したという山も、このような山であったろうと感想を述べ、更に「峯に上りてわかめやを(生)いたると見候へば、さにてはなくしてわらびのみ竝び立ちたり。谷に下りてあまのりやをいたると尋ぬれば、あやまりてやみるらん、せり(芹)のみしげりふ(茂伏)したり」と西谷の生活の一端を記しつつ「古郷の事はるかに思ひわすれて候つるに、今此のあまのりを見候て、よしなき心をもひいでて、う(憂)くつらし。かたうみ(片海)・いちかは(市河)・こみなと(小湊)の礒のほとりにて昔見しあまのりなり。色形あぢわひもかはらず。など我父母かはらせ給ひけんと、かたちがへ(方違)なるうらめ(恨)しさ、なみだをさへがたし」(定八六五頁)と、送られて来た故郷の香りのする海苔を見て、望郷の念を禁じえず、父母をなつかしむの情抑え難きことを素直に記されている。
身延山における聖人のいかにも人間的な情緒の一面を浮き彫りにした一文である。
次に大尼御前から御本尊を授与してほしいとの依頼について「おもひわずらひて候」と述べ、その理由を明らかにする。
大尼は既に述べた通り、竜口法難以後一旦は退転したが、聖人が佐渡から帰られ、身延へ入山されるに及んで、再び帰依の念を持つようになったのである。
この度も海苔を送って御本尊を戴きたい旨を書き送って来たのであるが、聖人は不退の信仰にいまだ疑惑のある者に対しては、厳しい態度をとられたのである。
俗世の上からは重恩の人であるので、本尊を授与したいとは思うが、しかし法の上からは偏頗のことがあってはならない。本尊を授与すれば偏頗の法師となり、経文にもそむくことになる。
また御本尊を授与しなければ、尼御前は我身のあやまちに気づかず、ただうらみに思うことであろうと考え、思いわずらう事であるとし、此の間の事情については、助の阿闍梨の書簡にくわしく書いてあるので、大尼に見せてあげてほしいと記している。
この助の阿闍梨という人は経歴が不明であるが、清澄寺の大衆の一人で、聖人に対しては深い帰依をよせていた人であろうと考えられる。
かくて聖人は法を尊ぶ立場から、大尼の申し出には応じられないことを明らかにした。
妙法五字の大曼荼羅は、仏も迹化の諸大菩薩にさえも譲り給はず、ただ本化のみに付嘱された大法である。
ここに末法救済の要法たる法華経付嘱の大事を明らかにした「起顕竟の法門」という聖人独自の法華経観が示されている。
そしてこの御本尊は天竺・漢土・日域にも見られず、日本最初の寺である元興寺・四天王寺にもその他の無量の寺々にも、この御本尊を拝することはできない。「而るに日蓮上行菩薩にはあらねども、ほぼ兼てこれをしれるは、彼の菩薩の御計らひかと存じて、此二十余年が間此を申す」(定八六八頁)とあるように、聖人は上行菩薩の御計らいとしてこの妙法を弘められ、大曼荼羅を顕して、法華経を一筋に信仰する者へ授与して来られたのであった。
今、途中退転の尼にこの本尊を授与することを許さず、新尼のみに与えられたのも、厳しい法の立場をとられたのであって、「法華経に相違することはできない」旨を強調している。
聖人が法の立場をあくまでも貫き通した厳格な姿勢を知ることのできる、注目すべき御書といえる。
《『遺文辞典』歴史篇「新尼御前御返事」の項、『日蓮辞典』「新尼御前」「新尼御前御返事」の項》