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耶蘇教との衝突

やそきょうとのしょうとつ #4499

耶蘇教との衝突

やそきょうとのしょうとつ

文一九年(一五五〇)、フランシスコ・デ・ザビエルらによってキリストは日本に伝来した。
これによって教とキリスト教は激烈な抗争を展開し、日蓮宗も一段ときびしい対立を重ねた。
それは諸宗折伏を生命とする日蓮宗と、布教伝導に力を入れるキリストとの衝突は、必然のなりゆきであった。
しかし日蓮宗とキリストとの論争についての信頼するにたる資料は極めて乏しい。
そうしたなかでも慶長八年(一六〇三)、博多においてイルマン(僧ないし沙弥の出身)と京都の日忠の宗論は代表されよう。
『耶蘇会士日本通信』には「法華宗と言う宗派の重立ちたる学者の坊主二人、日本の書物を悉く読みたる者、パドレと天地のに付、語りしが、此の議論において来世のは殆んど知る所なきと曝露したり」と述べられている。
これは文地上の話を行ったものであろう。
おそらく論点・主義主張・立場を異にしたものであろう。
他に『耶蘇会日本年報』には「彼は都に於いてパードレ、ルイス・フロイスやイルマン、ロレンソが信長の面前に於いて日乗上人と言う坊主と議論し、坊主は負けたことを見て、信長の長刀を取り、イルマンを殺さんとしたことを思出し」と述べ、日蓮宗の僧が卑劣な行為をしたような記録を残している。
これは宣師達の報告書であることからして誇張が多く、一方的な手柄話といえる。
こうしたキリストの強烈な教攻勢も、徳川幕府の宗教政策として政治圧力を蒙り、その影を全くひそめ、穏れキリシタンとして命脈を保ち続けた。
明治元年(一八六八)三月一五日、明治政府は「切支丹邪宗門禁制」の高札を全にかかげ、翌四月二二日には長崎県浦上村の信者数名を斬にした。
更に翌閏四月一七日には四〇〇〇人もの信者を捕え、全の三四藩に預けた。
しかし外交上不利であることから同六年二月二四日「切支丹禁制」の高札を「人民熟知ノ為」という由をもって撤去し、翌三月一四日には「諸県ヘノオ預ケノ長崎県下異宗徒帰籍」を許したのである。
一方、維新の幕開けと同に受けた殉難のキリストも、出版活動によって勃興の機運がかもし出され、同元年にはフランス人宣師、ベナルド・ブチジアンによって、信者祈祷書として平仮名中心の『聖教日課』と、キリスト教教理問答書として『聖教初学要』が著された。
翌年にはの告白、懺悔の方法として『故無知理佐無の理』、罪障消滅の日々の精進勤行について『科除規則』、ミサの解説として『弥撒拝礼式』、聖母マリアの悦び五項目、悲しみ五項目についての解説『玫瑰花冠記録』等が次々と刊行されていった。
ことに同年ブチジアンの秘書を務めた貞方良助は、キリスト弁護論として短篇『夢醒真論』ならびにその付録を著し、「人の正路を明らめ、本の途に導くといふは、唯切支丹の外にあることなし。
此御は人間万物の御親たる広大無辺の主、万民を救ひ給はん為の聖教なるを、勿体なくも世間に是を邪と云ふ。
誠に恐れても余りあらずや」と論じ、界に対して決議文にも似た発表をするに至った。
同年、これらの書に反駁する杷憂道人の『笑耶論』、教の無明世界を医学的に解明した原垣山(一八一九-九二)の『時得抄』、翌三年には神儒仏三教がその理において一であると強調する道人の『仏法不可斥論』が刊行されるに及んだ。
こうしてキリストへの対立意識が側から激しく起り、諸宗同盟会規則の中には「耶蘇開宗ノ場合ニハ、同盟ノ内ヨリ耶蘇師ト対決ノ必要アルベキニヨリ、ソノ用意ノコト」が折込まれたのである。
新居日薩(一八三〇-八八)もこうした情況を重くみて、千葉県内山の妙広寺に住し、中村・飯高の両檀林で教鞭をとっていた吉川日鑑(一八二七-八六)に檄をとばし、至急上京するように手紙を出した。
上京した日鑑と日薩は、顔を見合せ「死ぬなよ!」と第一声を発した、という。
それほどにの危機としてキリストをみていたのである。
神道教政策下における教は、キリスト教を倒しの命脈を保とうとした。
に神道による民教化の限界を覚った政府は、キリスト教防圧の意図も含め、教者の伝道力を利用する「神合併大院」を設立した。
一方、先進欧米強外交の有力な後楯と、東南アジア諸伝道という豊富な経験をもつキリストは、新知識吸収という文明開花の波に乗り、増々日本に弘められた。
このような中で明治二〇年鎌倉の六地蔵で、妙本住職藤原日迦と貫名義英は、キリスト宣教師と問答した(「妙法新誌」一二号)という。
日迦が問答したという年と前後し、欧化心酔思想の反動として主義の思想が抬頭して来た。
教はこの主義と結んだキリストに対抗していくのである。
《妹尾啓司「キリストとの論争」『日蓮信仰の歴史』、『明治文化全集』、清水龍山編『新居日薩』、宮川了篤「新居日薩」『近代日蓮教団の思想家』、『史大辞典』十一巻「日乗」・一四巻「ロレンソ」の項

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