妙傳寺聖典個人版 新・電子聖典

日顗(守玄院)

にちぎ #3201

日顗(守玄院)

にちぎ

(一六八一-一七五三
字は玄静、守玄院と号す。
池上・比企両山二五世、和元年に下総木積に生まれた。
一〇歳のとき、この地に小庵(いまの円実寺)を結んで隠棲していた学匠、常住院日宜(飯高化主・村松海長寺歴世)について出家得度した。
元禄六年(一六九三)に一三歳で池上の南谷檀林に入り、のち飯高檀林に転入して化主妙玄院日等の訓育をうけ、正徳三年(一七一三)九月に三三歳で玄能にのぼり、同五年に浅草の長遠寺の住職となった。
享保二年(一七一七)に芝の朗惺寺に転住し、同五年に南谷の一二世化主に迎えられ、以後六年、同一〇年四月まで在職した。
南谷出身僧で化主となった最初の人でもある。
この同八年には、池上貫首日等の命をうけて上総五十座の浜七ヵ寺で長座説法を行い、浄財を勧募し、宝永年(一七〇四-一一)に焼失した池上の諸堂の復興に大きな力をつくし、この年見にこの浄を完成させた。
飯高満山の学徒の招請で、その五八世の化主に迎えられてからも、門下の信望厚く、当代随一の学聖とたたえられた。
享保一二年の秋、日等の隠退によって両山二五世の猊座に昇った。
ときに四七歳である。
宗祖四五〇遠忌を四年後にひかえ早速その事業にとりかかり、釈迦堂の建立を発願した。
江戸はもちろん諸へも勧化の手をのばし、同一五年三月に間口一一間、奥行一〇間の堂を完成、翌年九月二八日から一〇月一三日まで一六日間にわたり池上全山で遠忌の大法要を厳修した。
元文元年(一七三六)八月一二日、在山一〇年で両山を退隠し、池上の西八丁の所にある蓬が丘に不二庵を建てた。
ここは富士を遠望し、大変景色のよい所で、文人墨客をここに招き、風雅の余生を送った。
日顗の筆になる蓬が丘代の和歌の懐紙や水墨画などがいまに伝わり、大黒天画像なども巧みであった。
不二庵はのちに池上中道院と合併し、取毀したので旧地は不明であるが、いまもその名景を詠んだ聠などが同院に保管されている。
また池上氏の後裔で、当代の文人であった幸豊との道交の模様が『池上与楽亭集』に詳しい。
日顗の日蓮宗内における指導者としての手腕も高く評価される。
享保一九年に起った身延後董問題の紛争で、六牙院日潮を推す立場から幕府に提出した取扱書や、南谷檀林は旧鎌倉宝篋堂檀林を移したから寺格の高いことを主張して、元文元年飯高へ南谷から横入する場合、同格で入録させることに成功したことなど、その一端をうかがい知ることができる。
また両山退隠に際して、紛争のないように瑞世次第を決めた遺言状を残し、一派に片寄ることなく檀林の先哲座次第によることを主張したことも注目されよう。
宝暦三年一一月三日、七三歳で没した。
一代の演説一万三〇〇〇余座、結縁の信徒一〇万人余と伝えられる。
隠棲の不二庵は遺命によりとり毀され、著書も焼却したらしい。
そのため多くを知ることができないが、わずかに残されたものからその文筆活動を知ることができる。
著述に『随力演説抄』三〇巻、『看経抄』などがあったというが、まだそのものを見ることができない。
『本化別頭祖統記』のもとになった『長興長栄両山列伝』も、かつて池上にあったが、いまはない。
ただ諸山に写録、自筆類が多少残っているので、今後の研究でその学風はより明らかとなろう。
開創する寺四ヵ寺、大坂上福島の浄祐寺、山梨県登美村の妙秀寺、相模今宿の本立寺同茅ヶ崎の妙行寺などである。
東海道が森刑場の大題目塔、日朗の生誕地千葉県能の朗生寺の石塔なども日顗が築いた。
またその門弟は非常に多く、俊秀が輩出して栄える。
いわゆる螢沢、中延、堺、土富店、神楽坂、大、柳島などとよばれる不二庵法類中道法類ともいう)中の格法脈がそれである。
《『本化別頭仏祖統紀』、『日顗上人伝』、石川存静『池上本門寺史管見』、『身延山史』》

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