妙傳寺聖典個人版 新・電子聖典

日覚(菩提心院)

にちがく #3054

日覚(菩提心院)

にちがく

(一四八六-一五五〇)
字は智秀、題目と号する。菩提心院日覚。
文明一八年尾張春日井郡森山(守山)に生まれた。生、幼期に関するは不詳。
稲生妙本寺日昭につき剃髪し、東国遊学に向い武蔵国仙波の実海について台学を修得し、次いで同国金鑽、下野長沼の談義所にて修学し台当の奥旨を極め、永正一〇年(一五一三)侍従阿闍梨日現の後に越後本成寺九世の法燈を継承した。
に二八歳であった。
『長久山(本成寺)歴代譜』によると日覚の「退院は文九年、在位廿八年」とある。
『望月仏教大辞典』などもこの資料に基づき退院を文九年(一五四〇)としているが、この資料は焼失したものを江戸後期(文化・文政の頃か)に編輯したもので杜撰な点が多く信用がおけない。
『光了山(本禅寺)歴代譜』によると「大永七年本成寺を意師に任し越中井田に隠棲す。又は九年ともいう」とある。
法華宗綱要』もこれによっている。
ち大永七年(一五二七)本成寺を退き越中井田に退住し、その間に城主斎藤氏の帰依を受け井田妙法寺を創建した。
文五年七月、天文法難により本禅寺も同月二七日に焼失した。
の本禅寺は『当門諸祖行記』によると四世「日源円寂後既に無住にして六十年なり、法澄絶えんとす」状態であった(一説には九五年無住であったともいう)。
日覚は法資日尊を率いて本禅寺再興を計るべく井田より急ぎ上洛し、洛中を東奔西走しその活躍及び日覚の学識遂に叡聞に達した。
法難に引続き同六年に彗星、同七年四月に大地震等の変地異現じ、飢饉疫病の大流行で人心は混乱しその原因が法華宗に対する禁圧によるとの噂が広まり、後奈良天皇は同八年勅して日覚を招請し、紫宸殿中に一七日法華経を天聴され大いに感じられ、日覚は直ちに上人号を授けられ、やや暫くして同年八月一一日僧正号を同一二年四月二八日大僧正号を賜った(一説に一一年ともあるが、今は『本禅寺歴代譜』一二年説による)。
また法華経御進の功により他の洛中諸山に先がけて文九年五月西陣桜井の地に本禅寺再興の勅許を賜わった。
法華宗徒帰洛の許状が同一一年であるを考えるとこれは破格の扱いであったが知られる。
また文一二年九月一三日には本隆寺日映と日現以来の懸案であった本隆寺と法水一味通用門流の盟約を、本門寿量の玄旨をもって法華経最極要枢とする点において締結を見るが出来た。これも日覚の学徳に日映が感じ入ればこそ可能となったであった。
また天文法難の際、近江水保村の野沢又六郎なる者が洛中六条口にて聖人御随身の立像釈迦を取得し、同村今井道順の手に渡って後、文一六年(一説に同七年)日覚に跪捧し本禅寺に安置された。
これにより失われた三箇の重宝が門流に戻ったになった。
これらの績により法灯相続はしなかった(資日尊が五世を継承)が、日覚は本禅寺中興の祖と仰がれ、更に中興日陣に次いで門流の準中興の祖と仰がれるに至った。
日覚の学徳を慕って英俊が集まりその資に本成寺一〇世日意、同一一世日、同一二世日芸、黒瀬本法寺中興三世日葉、三沢豊顕寺開山日時、本禅寺五世日導、井田妙法寺二世日教、同三世日厳らが輩出した。
就中日意は本成寺に晋み、本禅寺再興及び再の荒廃なきようにと東海一五ヵ末寺に対し僧綱職、交衆坊帳、院号の聴許等を本成寺に替って本禅寺に納めるべく命じ、旦扇も月牌料等の供物を本禅寺に納めるべく命じ、一五ヵ国の末寺を本禅寺末に預け末寺の少ない本禅寺の資糧となした。本禅寺の今日あるも日覚とその門弟の力といわねばならぬ。
文一九年一月一六日井田にて遷化。
六五歳。
その著述に『発心共轍』一〇巻、『徧強観破』四巻、『愚案集』二巻、『小壺集』一巻、『本迹要文集』二巻、『童矇発心』二巻等があり学識は陣門四哲の一人に数えられている。
木陽伝『陣門史』、鈴木正厳「覚尊の教義の一考察」『法華宗宗学研究所報』四、『法華宗綱要』、宮崎英修『日蓮宗徒群像』、『日本仏人名辞典』「日覚」の項

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