日有(中山法華経寺)
日有(中山法華経寺)
にちゆう
(-一四四八)
中山法華経寺第七世。
日有は久遠成院日親より法理に誤りあるものとして糾弾されているが、その経歴等においては未詳の部分が多い。
このため日親の行動にそって日有を紹介する。
日親は永享五年(一四三三)、九州の導師職として肥前国(佐賀県)小城市松尾光勝寺に赴いて、この地の宗教的指導にあたることとなった。
ところが小城の地に臨んで日親が見た宗門の現状は、他宗との複雑な宗教関係に災いされて、きわめて不純なものであった。
そこで光勝寺の大檀越で小城の領主たる千葉胤鎮の信仰態度を厳しく糾弾する。
胤鎮は光勝寺と共に天台宗の岩蔵寺、禅宗の円通寺にも積極的に保護を加える態度をとっていた。
これに対し日親は、胤鎮を誡めたけれども、胤鎮にとってはおそらく在地の支配のため、その所領内に大きな勢力をもつ岩蔵寺と円通寺をも保護していたのであり、日親のこのような主張はとうてい受け入れられるべくもなかった。
そこで日親は胤鎮の信仰が邪であるのは、究極的には教団の中心的指導者たる中山法華経寺日有の責任であると糾弾する。
日親は九州の導師職在任中、数度にわたって下総に帰り日有と対面。九州の仏法の有様を詳しく説明して、日有自身九州に下向してでも胤鎮を教訓すべきであると諌めた。
もしそうまでしても日有の命を聞かずに従来の方針を守るならば、胤鎮ら一門を中山法華経寺の教団から破門すべきであると主張する。
しかし日有にすれば、胤鎮の保護の下に光勝寺を中心として九州における中山法華経寺の教団の拡張を計り、中山法華経寺の教団体制を、さまざきな妥協の上に立ちながらもとにかく続けていこうとしていたと考えられ、このような日親の諌めは不都合なものであったろう。
やがて日蓮聖人の遺志にそった純粋な法華信仰を唱える日親は、次第に中山法華経寺の教団から異端視されるようになる。
かくて日親三一歳の夏、永享九年(一四三七)七月七日、中山法華経寺日有の使者が突然光勝寺の日親を訪ねた。
その使者は日親に対して「門徒を擯出」すること即ち破門を言い渡したのである。
中山法華経寺から破門された日親は、かつて光勝寺当時の僧侶や信者に対して一書(『折伏正義抄』)を遣わしている。
この中で日親は当時中山法華経寺の教団におけるさまざまな矛盾をつき、その総責任者として貫首日有の態度を厳しく追及する。
つまり日有は聖人以来の制法たる謗施の禁、本尊雑乱の禁などを破った「悪師」として糾弾されるに及ぶ。
のちに『埴谷抄』においても、日有の法理の誤りについて列記しているので紹介することとする。
第一、日有が種々の謗言をつくして、あるいは悪知識、あるいは逆罪人、あるいは悪人などと、かように東西にかきちらし、自他宗にわたって日親を軽悔せられた罪業は、いったいどれほどであろうか。その書状はまたいかほどにのぼったのであろうか。日親もその内の数十通を持っている。この中で「彼の提婆は生身に無間地獄に堕ち、此の日親は阿鼻を感ずべし、恐るべし恐るべし」などと、日親に謗言の限りをつくしているという。
第二、日親が幕府への諫暁をはかった時、要路の武士に書状を遣わし、さまざまの手段によってその目的の達成を阻害しようとしたとして、『立正治国論』完成以前にまず日親が捕えられたのは、日有が石橋殿へ書状を送ったからである。そして法華経の行者たる日親を、讒言によって「水火の責にあわせられしは、恐らくは仏身を苦悩させ給うに非や」という。
第三、中山門流代々の仏書や秘蔵の書物など、特に他宗との対論書などを他宗他門の手に渡したのは、仏法滅亡の罪業にほかならない。更に一乗流通の伽藍、つまり日親の弘通所を破却せられて、乞食・非人の手にかけて不浄処とした日有の罪過は重いという。
第四、中山法華経寺の日祐・日尊・日暹・日薩の四代にわたって勤行供養を続けた釈迦の木像の手指を切って印相を改めて合掌印とした。『真間釈迦仏供養事』の御書には「法華経一部、仏の御六根に読み入れ進せて、生身の教主釈尊に成しまいらせて、かえり迎え進せさせ給え」とある。この言葉からすれば、日有が印相をかえたという行為は、生身の釈尊の御手を切ったことにほかならず、まさに悪業というべきであるという。
第五、本尊の雑乱勧請があいもかわらず広く行われていることを非難している。日親がかつて九州の導師として松尾の光勝寺に住した時、付近の末寺に安置してあった法華経に無縁の仏菩薩をとり離した。しかるに日親が破門されてこの寺を退いたのち、導師として新しく入山した日暁は、これらの仏菩薩をふたたびもとにように安置した。日暁はもともと日親に従い、その教えを守っていたのであるが、この変わりようはいったいどうしたというのであろうか。門徒僧侶の謗法の責任は貫首にこそあると、その責任を追求する。
第六、郷律師日中常蓮が他門流の供養を受けて在京していることは、中山法華経寺門流の法則を破ったことにほかならない。日有はこのことをよく知りながら何の成敗もしなかったのは、他門流と妥協してしまったからであろうか、という。
このように日有は日親の批判の対象として広く知られるが、日有の経歴等についての記録は皆無に等しく、いま文安五年(一四四八)一一月一三日の入寂のみを知る。
《中尾堯『日蓮宗の成立と展開』、同『日親―その行動と思想―』》