日好(禅智院)
日好(禅智院)
にちこう
(一六五五―一七三四)
禅智院と号し、京都に生れ、姓は本阿弥、字は唯妙、本通日允に投じて出家した。
鷹峰・中村両檀林に学び、功成って水戸檀林・京都六条檀林の化主となり、水戸と京都の間を往還すること、前後三たびに及んだ。
元禄一〇年(一六九七)玉沢妙法華寺の二七世に晋んだ。
在職三年にして職を日随に譲り、江戸牛込の久成寺に退き、更に日允の遺跡である本通庵に隠退した。
その後、中村檀林第四〇世の化主となったが、同檀林が火災に遭い、講堂・僧堂等焼失したので日好は力を尽して復興に努め、再興成るや再び前記の本通庵に退いた。爾来、青山散人と号し、唱題の暇に大蔵経を閲し、祖書を繙いて著述に没頭した。
日好の著述としては『録内拾遺』八巻(享保三年)、『録外微考』二巻、『臨終用心記』二巻(享保五年)、『録内扶老』一五巻(享保一三年)等があり、更に詩文集としては『風水稿』『千喁集』等がある。
享保一九年七月、微恙を感じて本通庵にて遷化、世寿八〇歳(一節八一歳)中込の恵光寺に葬る。
日好は幼少にして両親を失い、貧窮孤露にして復た恃怙がなかった。螢雪を友とし困苦と闘い、ひたすら教学の研鑚に身を委ねた。
三昧堂檀林にあっては自ら主座として月の夕には仏隴の禅を行じ、風の莚には慈雲の懺法を修し、行学の二道に努めた。
かくて日好は学解の外、読誦・礼懺・座禅・持戒を行じたのであるが、殊に元政の風を慕って持戒主義を奉じた。
したがって日好は当代の人なりと雖も、上根上智は持戒すべきことを主張した。
「諸悪莫作、衆善奉行は三世如来の通誡である。かの五逆悪ありとも、法華の利益にあづかるというが如きは、経力の滅悪生善の徳を強調したのであって、五逆の悪を作ることを許したものでない。故に機に従い、分に応じて持戒を厳守すべきである」と論じている。
従ってまた行法論においては観心と唱題の相資を説き、末法の通機は信心口唱であるとしても、末法に観心の機がないというべきではなく、唱題成仏の外に観行成仏の義が存すると看做している。
而してかかる点からして、日好は『初心成仏抄』等を「古来一往の説、あるいは台家附順の説と解するが如きは、祖意に悖るものである」と評している。
成仏論においては修顕得体の極果成仏を目的とする。
即ち日好によれば「一般に即成というは、名字聞法の解了の義であって、修顕得体の身心成仏の義ではない」という。
かくて日好は安易な即成論を排して、未来成仏の安心を見出さんとしている。よって日好は二生・三生成仏義を説く祖判を類聚してその証拠となし、一方、観念成仏義を説く『総勘文鈔』『十法界因明果抄』等の如き祖判に対しては、文献批判を試みたり、あるいは祖判としての軽重を論じているのである。
要するに日好は重門の教学を継承し、殊に日遠の『法華文句随問記』の説をもってわが意を得たりといい、かかる立場から日講の『録内啓蒙』の説に対しては批判を加えている。
『顕謗法抄』の『録内扶老』には、末法における凡師にも、上根は鑑機あるが故に前権後実の以偏助円の化導を許すべきであると論じ『啓蒙』がこれを許さざるは非なりと評し、また『啓蒙』が「末法は永く小権の化なし」というは不可であるとして、末法にも小権の化を許している。
従って摂折論においても勿論、摂折二門の相資を説き、安楽行品もまた末法の行用であると論じ、重門の摂受主義を継承しているのである。
《『録内拾遺』『録外微考』『臨終用心記』『録内扶老』(いずれも『日全』)、『日本仏教人名辞典』「日好」の項》