日修(不軽院・證誠院)
日修(不軽院・證誠院)
にっしゅう
(一五三二-九四)
法華宗真門流の総本山、慧光山本隆寺の第七世の貫首。
日蓮教学史上、代表的な学匠である。
字を承慧といい、後不軽院あるいは證誠院と号す。
三光無師会で著名な仏心院日珖と同時代の人である。
日修の俗姓は明らかでない。
天文元年正月元旦本隆寺日諦に拾われ、そのもとで養育されたと伝えられている。天文七年七歳にして比叡山に登って天台学を学び、螢雪の功を積むこと一二年に及ぶ。更に天文一八年(一八歳)には、建仁寺の一切経蔵に入って一切経を閲覧した。
またその間吉田神職観翠軒について神儒両道を学ぶ。
天文二一年三月に和泉堺に赴き、住吉神社の経蔵に入って再び一切経を閲し、社職のために神道を講じている。
永禄元年(一五五八)六月、師日諦遷化の訃報に接し、日修は越前に赴いて手厚く葬っている。
その後、日修の法兄に当る本隆寺六世證誠院日雄が元亀二年(一五七一)四月一二日遷化するに及んで、第七世の法灯を継承した。
更に天正七年(一五七九)五月には、八幡本妙寺二世普伝日門が安土問答に坐して刑に処せられたために、日修は同寺を兼任した。この時、前豫州大守源経孝は日修に帰依して日孝と号し、法義を記して後世に残さんことを請うたのである。よって天正七年の秋、日修は師相承の宗義により、法華一部について大略二五〇余ヵ条にわたる註解を加え、これを越前平等会寺の日然に口決した。これが『真流正伝抄』六巻である。
翌年三月、明国の神宗から書三軸を正親町天皇に献ぜられ、日修は天皇の招きによって参内し、これを訓解した。
次いで自ら『立正安国論科註』一巻を撰して天覧に供し、勅して日諦に権大僧都が贈られ、日修は法印に叙せられた。
文禄元年(一五九二)には後陽成天皇の勅を奉じて『天台三大部科註』を献じた。
次いで本隆寺を日饒に譲り、若狭小浜本境寺の請に応じてこれを董し、文禄三年一一月七日、六三歳をもって示寂した。
その著書は、前述の他に御書に関するものとして『録内御書科文』四巻、『御書要文』二巻などあり、法華経の註釈には涌出品のみを注記した『遺金抄』一巻がある。この『遺金抄』は涌出品の講述を、その門下が筆録したものである。
天正一六年一〇月一七日より一一月二六日までの七座の講述であって、完結を見ていない。
また日蓮聖人伝に『蓮公薩埵略伝』一巻、法華神道に『鎮守勧請覚悟要』一巻がある。
さて日修の教学について見ると、派祖の日真はもっぱら天台三大部研究によって、宗義を明らかにせんとしたが、彼は一歩進めて祖書による真門教学の確立に注心した。
従って隆門教学、興門教学、要法寺日辰の教学、関東の一致派教学等に対する批判を論じ、内には日映教学を隆門与同と排し、五世日諦の教学を正統と判じたのである。
本迹論では本迹の実相異体説を主張し、隆門の理同事異、法身通同の義を排している。
また久近本迹勝劣の立場から日辰の約教已今本迹を破すのである。
また妙顕寺系の教学が神力品正意を論ずるに対して日修は寿量正意を論じ、顕本義においては理顕本に対し事顕本を力説した。
ここに日修は絶対唯一の久遠本仏を確立し、この本仏の実修実証の行体が本果の妙法であり、本法と見なすのである。
従ってこの本法は衆生成仏の種子で、その体は本果である。つまり本果の種子を下種するという本果下種論に立つのである。
またその成仏論においては、信の当処に、ただちに究竟即成を認める。
信心が弱く権実雑乱のものは、二生・三生を経るのであるが、直行の本機はただ一念成仏であると説くのである。
このように、日真門流の教学は、日修によって大成されたのであるが、日真・日諦の寿量正意論は已今本迹の立場から能判として論じたのであるが、日修は所詮の理として、寿量正意論を主張し久近本迹を主張した。
つまり日真・日諦は一品二半と寿量品とは広略の差と見なしたのに対し、日修はその間に思想的な差異を論じ、能顕の寿量品と所顕の寿量品の間に教判的な勝劣を立てるのである。
ここに日修は二師の思想を継承しながらも独自の解釈を加えることによって、真門教学の樹立を図ったといえるのである。