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日伝(本覚房・大円阿闍梨)

にちでん #2435

日伝(本覚房・大円阿闍梨)

にちでん

(一二七七-一三四一)
朗門九鳳の一人、もと日典ともいい、本覚房、大円阿闍梨と号す。
平賀本土寺三世
越後で生まれ、俗姓は藤原姓の三条氏という。
幼少の頃柏崎の台寺で薙髪出家し、智行兼備の清僧とうたわれ、若年で『法華玄義』を講じ、能化にすすんだ。
室町期に成立した日晴の『平賀本土寺継図次第』は、日伝の績を次のごとく伝えている。
聖人佐渡流謫中、文永一一年(一二七四)頃に日朗はたびたび佐渡に渡海して聖人に給仕した。
ある柏崎で難風に遭い、船待ちで滞留した折、日伝の台寺に至り『法華玄義』を聞いて種々法門を談じた。
このとき日伝は日朗に帰服して衣を改め、日朗に従って佐渡聖人に拝謁し、聖人は日伝の名を与えた。
更に初発道心の師である日朗の弟子とし、以後日朗に随従して鎌倉比企谷に住して活躍する。
建治三年(一二七七)正月一日に曽谷法蓮日礼が平賀の地蔵堂を改めて法華堂を建立した。
次いで日朗に開山となることを願ったが日朗は比企・池上両山を領掌して多忙のため、代官として日伝を遣わした。
これが本土寺の濫觴だと伝わる。
摩訶一が違乱のとき、日伝は日朗の譲状で後継者は明白であるとして卒先日輪に仕え、妙本寺を本寺と仰いだ。
また日が日朗の遺品である諸聖教と重宝をもって出奔したことを大変悲しみ、それらを筆写して比企の法蔵に納めたという。
妙本寺は何かと不如意なことが多く、日伝は平賀の法華堂に在住して半年間は田畑を耕作し、その飯米をもって比企谷に至り、残り半年間を妙本寺で過ごし、法務に携わった。
そのため半年僧というアザナをつけられるほど忠節に厚い僧だったとも伝えられる。
暦応四年三月六日、六五歳で平賀妙泉院で没し、ここで荼毘に付され埋葬された。
本化別頭仏祖統紀』は、この日晴の説をほぼ継承しているが、平賀本土寺の寺域に妙泉院を開いて師日朗の塔院としたこと、日朗没後に若年の日輪の育に当ったことなどの新説を加え、没年齢を九五歳と改めている。
これは上述の『平賀本土寺継図次第』の矛盾、つまり日朗との出会いである文永一一年、平賀法華堂建立の建治三年の両説を正当化するためには、日伝の没年と年齢がそのままでは具合がくなるから、逆算して付会したものであろう。
最近『平賀本土寺過去帳』などの研究から、本土寺の前身である法華堂は延慶二年(一三〇九)に建立され、日伝はそこに三三年間という長い間在住し、六五歳で没したことが明らかになった(小高清「平賀本土寺と比企池上の関係」『史誌』六号所収)から、これら従前の諸説は信ずるに足らなくなる。
また文禄-慶長頃に成立した『当家諸門流継図之事』では、本土寺を日伝建立の寺なりとして、本来日伝は身延門流に属したが、日朗に親近したため、その門流とされたと異説を伝えている。
日朗に親近する以前に身延門流であったかどうかは明らかでないが、平賀本土寺の実上の開山であることは違いない。
元徳二年(一三三〇)三月に下総取市岩部に安興寺を開創したというが、その経緯は不明である。
著述に『別頭三五記』『十二因縁抄』『大聖人御遷化記録』『被接義』『御会式法則』『本迹二門私記』『宗要集』『華厳道場等』『祈祷経口決』『祈祷経血脈』『祈祷経相承』などがある。
《『本化別頭仏祖統紀』、『平賀本土寺継図次第』、『当家諸門流継図之事』、『平賀本土寺過去帳』、『日蓮宗大観』、小高清「平賀本土寺と比企池上の関係」『史誌』六号、『日本仏人名辞典』「日伝」の項

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