妙傳寺聖典個人版 新・電子聖典

承教寺(東京都港区)

じょうきょうじ #2253

承教寺(東京都港区)

じょうきょうじ

長祐山。 東京都港区に所在。
寺伝によれば、開山は一乗院日円。
正安元年(一二九九)二月芝西久保の地に開創、承応二年(一六五三)二本榎(にほんえのき)(今の高輪)に移る。
ただし『本化別頭仏祖統紀』『平賀本土寺継図次第』によると、承教寺は平賀本土寺八世円淋房日福の開創に係るという。 日福は曽谷法蓮の子、山城入道典宗の孫で、日饒の門に入って出家、平賀の法灯を継承し、江戸に隠居所を築き、弟子宝寿日円(法寿房日円)を代官とした。 日福は宝徳二年(一四五〇)一二月二〇日、本土寺在職二三年、七三歳で入寂した。 日円は江戸の隠居所を精舎となし、師を崇めて開山とした。 門前に二本の榎を植えたために、二本榎承寺と称し、江戸における大村華の地として栄えたという。
このように、寺伝と前記二書のには記述に相違があり、承寺歴代譜に日福の名は見えない。
寺の縁起は、四二世慈中院日源が、昭和五年(一九三〇)に行った「二王尊・二王門修理覚書」と昭和六年の聖人六五〇遠忌の慶讃記念として行った「諸堂大修営趣意書」によるものである。 これには「当山は今を距ること六百三十三年宗祖滅後第十八年、後伏見天皇の御宇正安元己亥年開山一乗院日円上人芝西の久保に草創せる所徳川時代に至り後光明皇の承応二癸巳年三月現在の地に移転す」とその歴史を記述している。 これによると、池上本門寺門末触頭として江戸役寺に任ぜられ、例年正月六日の年始登城の折は乗輿独礼席の待遇を受け、延享二年(一七四五)三月の大火によって類焼し、天明年間(一七八一-八八)に本堂を復興、二王門は元禄一二年(一六九九)二二世元成院日亨(享保一〇年入寂)によって修復、境内の朝日堂は二七世如山院日善(宝暦四年入寂)によって奉安建立、四一世慈譲院日就によって朝日堂の再建、霊牌堂の増築、庫裡の営繕等がなされたが、大正一二年の関東大震災により毀損、四二世日源によって復興されたという。
歴代譜は三二世慈明院日洋(文化一四年遷化)によるもので、開山一乗院日円は元亨三年(一三二三)八月二日の入寂と記されている。 ただし、これらの寺伝の資料は現存しない。 従って寺伝と『本化別頭仏祖統紀』、『平賀本土寺継図次第』のどちらが正しいかはわからない。 ただ承寺の歴代譜等の記録からして、寺伝に真実味があるように思われる。
享保一六年(一七三一)の『本化別頭仏祖統紀』と文明五年(一四七三)以後と推定される『平賀本土寺継図次第』はいったい何によってこれを記述したのであろうか。 今後の検討を要する。
近代においては、明治五年(一八七二)、神合同の教育宣伝機関として大教院が設置されることとなり、日蓮宗ではその支院である宗教院を承寺に置いた。 新居日薩はここで、三村日修と共に宗門子弟の育に当った。 明治八年五月、大院が廃止され、宗教院日蓮宗大教院と改称、日蓮宗の宗務局となった。 明治一二年には育と宗教と宗務局の分離がはかられ、宗教局を廃止し宗務院が設置された。 宗務院は宗務・学務・財務を統轄したのである。
これより先、明治八年、宗門の育機関は東京に大院、全八区に中教院、他の地方に小教院を置き、明治一七年には、大教院は大檀林、中教院は檀林とし、他に大檀林支林を設け、小教院を檀林のもとに置き宗学林とした。 明治一九年、池上本門寺に晋んだ新居日薩のあとを受けて小林日董が就任、翌年、一度は辞任したものの、二三年より復帰して大檀林林長となった。
明治三六年、宗門の育制が改良され、全の小檀林・中檀林・大檀林を合併し、日蓮宗大学林とし、三七年四月、二本榎から大崎へ移転した。 後の立正大学である。
この三〇余年、承寺は宗門の宗務・育両面にわたる中心地として栄えたのである。
旧池上本門寺触頭として、支院に安立寺・妙福寺を擁した。
心性院日遠・遠沾院日亨らの大曼荼羅御本尊を始め、身延山久遠寺・池上本門寺・飯高檀林等に関する冊子(写本・刊本)類を所蔵する(『宗全』二三巻には「承寺文書」として日有の『御取立感応記』が収録されている)。
境内には英一蝶の碑がある。
《宮崎英修「英一蝶」『日蓮宗の人びと』》

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